2020/3/15 イザヤ53:3-11「神ご自身が」ニュー・シティ・カテキズム19
今日の朝の礼拝では「罪の赦し」のお話しをしました。キリスト教では「赦す」ということをとても大事にします。しかし、「赦し」は誤解されることでもあります。決して悪を大目に見るとか忘れる、問わない、ということではありません。問題にしっかりと立ち向かった上で、その罪の傷を癒やしていくのです。夕拝で、人の罪についてお話しをしてきました。罪は、人が神の願いに逆らうこと。神以外の何かを神のようにして生きることです。罪はそれ自体で、自分の首を絞めること、悲惨や破綻をもたらすことに他なりません。その事をしっかり覚えた上で、今日はその罪の解決を見ていきます。
第十九問 罰から逃れ、神の好意を頂く方法はありますか?
答 あります。神の義を満たす為に、神御自身が、ただあわれみによって、私たちを神ご自身と和解させ、贖い主によって罪と罪の刑罰から解放してくれます。
私たちが、罪の罰から逃れ、神の好意を得る方法。それは、私たちが何かをすることではありません。私たちがどんなに良いことや、何か神を喜ばせる秘密を知って、一生懸命アピールしたとしても、そんなことは何の役にも立ちません。クリスチャンが「私が救われたのは、神様が私の真面目さや一生懸命さを見て、分かって下さったからよ」と言ったとしたら、それは完全な誤解です。私たちには、救いを戴く方法など何一つ生み出せません。ただ「神ご自身が」行動を起こしてくださること。神に対する私たちの罪のために、神ご自身が罰するより、裁いて滅ぼすよりも、私たちのために立ち上がってくださって、神の義を満たしてくださる。そこに私たちの希望があるのです。
今日読んだ、イザヤ書53章は、旧約聖書の中で、やがてキリストが来て、苦しみを受けて、私たちの救いを果たして下さることを預言した、とても大事な章です。イザヤ書53章。覚えて下さい。この中で、将来のキリストの苦しみを描きながら、
10しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。…
とありました。この「御心」という言葉は、喜ぶ、願うという意味があります。主なる神がそう願われた、というのです。計画とか、意思というだけでなく、神の御心は、神が自らそう選ぶ、ということがあります。そもそも、誰も、神に願わないことをさせることは出来ません。神は人間の罪を怒りたかったけれど、救いたくもあったので、渋々イエスを送り、十字架にかけたのではありません。勿論、それはイエスにとっても、神にとっても、大変な痛みでした。私たちには、十字架の痛みや苦しみがどれほど深く、恐ろしいか、ごく僅かに想像することしか出来ません。まして、神が十字架にかかるという事が、神にとってどんな痛みか、苦しみか、屈辱か、想像すら出来ません。けれどもそれを神は選んでくださいました。神とイエスは、私たちを罪から救うため、イエスが十字架にかかり、私たちが罰せられる代わりに、イエスが不当な罰を受ける、という形を選ぶことを、喜んで選んでくださいました。そうしたいと願ったのは、ただ、神ご自身の私たちに対する愛です。罪に滅ぶことを可哀想に思ってくださる愛です。そうして、キリストが自分のいのちを「代償のささげ物」としてくださったことで、末長く、永遠に、神の民の歩みが続くようになりました。それが主の御心(喜び)でした。
私たちが、罪の罰から逃れ、神の好意を戴けるのは、神ご自身がそう願ってくださったからです。しかも、罰から逃れさせる、というだけではありません。キリストは、私たちを神ご自身と和解させてくださいます。これは、「罪」が神に逆らうことだ、という基準であることを思い出すと、結びつくでしょう。単に道徳的な悪が「罪」で神はそれを怒る、というだけのことではありません。罪とは神に逆らうこと。であるとすれば、当然、罪が解決するとは、神との和解でもなければなりません。神は、キリストによって、私たちとご自身との関係を和解してくださいました。神が和解してくださいました。それは、神が御心とされたこと、喜んで自らしてくださったことです。
勿論、未だに私たちには罪があり、神に逆らったり、神との関係を大事に思えなかったりする問題はあります。私たちは神の子どもとして修復されていく途中にあります。罪の悲しさも、神の偉大さも、キリストの十字架の重さも、もっと知っていくことが必要です。しかし、その回復の途上にある事自体が、神が私たちと完全に和解して下さったからこそ始まった歩みです。私たちは不完全ですが、神はその私たちと完全に和解したいと願ってくださいました。一生かかっても、私たちが神の子どもとして教えられ、新しくされることを御心として、私たちに働き続けてくださっています。それが神の喜びだからです。
時に、キリストの十字架が、神から差し出されたものであることが忘れられることがあります。キリストの苦難が、神の喜びでなく、私たちのための「仕方なし」の妥協案だったように言われることがあります。キリストにより神との完全な和解が与えられたのも「イエスに申し訳ないことだ」と罪悪感を煽り立て、後悔を強いる言い方でも語れます。「神は本来なら罪を罰したかったのに、イエスが間に立って下さったことで、私たちは辛うじて救われるのだ」とでも言うかのような理解があります。私たちはイエスの十字架に負い目を感じなければならないのでしょうか。「十字架にかかってくださってゴメンナサイ」と言わなければ恩知らずになるから、信じるのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエスは十字架に死に、よみがえられました。神は私たちが罪の罰を受けるよりも、ご自身が犠牲を払ってでも私たちを罪から救い出したい、私たちとの関係を回復したいと願いました。私たちが救いを願うより、神ご自身が私たちとの関係回復を願ってくださいました。イエスが下さったのは後悔や罪悪感ではなく喜びです。
この神に替えて私たちが縋っているものは全ていつか失われます。私たちは自分の持っているあれこれがなくならないよう神が守ってくれることを期待して、何かあると神を信じない理由にしてしまいます。しかし、神との関係はそんなものではないのです。神がこの私を失うまいと思ってくださった。そのためにイエスが来ることを喜んで選ばれた。こんな幸いは他にはありません。その喜びをもって、今を生きてゆけるのです。
「和解の神よ、私たちのために道を備えてくださり、ありがとうございます。あなたは正義においても、恵みにおいても、いつも完全なお方です。私たちは救われる資格などないものです。しかし主よ、あなたの救いを受け取ります。あなたの愛するひとり子イエス・キリストの御名によって、私たちではなくイエスが成し遂げられた御業に信頼し、あなたの御前に歩み出ます。アーメン」
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