聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/12/23 クリスマス礼拝 マタイ伝二章「王としてお生まれになった方」

2012-12-31 09:39:37 | クリスマス
2012/12/23 クリスマス礼拝 マタイ伝二章「王としてお生まれになった方」
ミカ書五2―4 ルカ伝一68―79

 イエス・キリストがお生まれになったとき、また、お生まれになる前、そのおいでを知らせたのは、御使い(天使)たちや星、東の国からの博士たちなどであったと、聖書のクリスマス記事は伝えています。また、先に読みましたミカ書のように、五百年以上前に書かれていた旧約聖書の文書も、イエス様がやがて来られることを様々に予告していたのです 。イエス様がおいでになったことは、歴史も天界も総動員するほどの、本当に大きなことだったと分かるのです。
 お生まれになったのは、小さな可愛い(とは聖書に書かれていませんが)赤ん坊でした。クリスマスの絵や置物によくあるように、人の泊まる宿ではなかったのですが、小さな小屋でもそこにマリヤとヨセフに挟まれて、飼い葉桶に寝かされているお姿は、ほのぼのとした、という表現がピッタリだと思うのではないでしょう。何かそこに神々しさとか偉大さなどを持ち込むことは、興醒めのようにも思われるのかも知れません。しかし、そのどちらもあってのクリスマスなのですね。
「 1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
 2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」」
 ユダヤ人の王を拝みに、遠い東の国からの博士たちがやってきました。当時のヘロデ王は、そんな偉大な王が来るなら自分の立場が危うくなると恐れました。
 「 3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」
 しかし、そうして博士たちが導かれて探し当てたのは、
 「11…母マリヤとともにおられる幼子…」
だったのです。しかし、彼らはそれでガッカリしたりはしませんでした。
 「10…彼らはこの上もなく喜んだ。」
のであり、
「11…ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
 はるばる旅をしてきて拝ませていただくにふさわしいお方。高価な贈り物をささげるに価する偉大なお方。そして同時に、だれも顧みないで人間の宿さえ与えられないような迎えられ方をされて、暗い飼い葉桶に寝かされて、それでも怒ったり不機嫌になられたりせずにスタートを切られたお方。それが、イエス・キリストなのですね。
 それは、当時のエルサレムの宮殿に踏(ふ)ん反(ぞ)り返っていたヘロデ王とは見事に対照的な王でした。「王らしくない王」と言ってもよいでしょう。私たちが思い描くような王とは全く違うお方。クリスマスの歌にはそういう歌詞のものが沢山あるのも頷けます 。
 けれども、神様の中では「偉い」というのと「威張る」というのは同じではないのですね。本当に偉いお方、力強いお方ですが、そこで人間みたいに偉そうにするとか成金根性が出るとか、そういうことは考えもしないのが神の子イエス様なのです。それでも、イエス様は、まことの神であられ、まことの王であられます。この王様は、ご自分の国である世界が、正義から背いて罪に満ち、自分のことばかりを考え、滅びに向かっているのを本当に悲しまれ、怒られて、そこから私たちを救い出すために、王として来られたのです。
 祈祷会で学んでいますテキストで、キリストを預言者とか祭司としては信じているけれども、王だとはっきり信じていない教会が多い、という文章がありました。王だと全く信じていない、というのではないのだと思います。ただ、王だとはいえ、力がない。決定権を持たない。落ちぶれた王、ぐらいに考えている、ということなのでしょう。
 勿論、イエス様のお姿を見れば、イエス様が権力を振るって、上から人間を治めたり、私たちに無理強いをしたりなさるお方ではないことはハッキリしています。赤ん坊になって来られたイエス様は、すべての武器を捨てて、丸腰で来られたのです。けれども、だから王様でもなくなった、というのではなくて、そういう方法で私たちを本当に治め、御自身のご計画を間違いなく確実に実行される王であられる。外からの力尽くではない、ということも私たちにとっては有り難い恵みですし、でも私たち任せで指をくわえておられるというのでもなくて、見えない形で私たちを導き、心に語りかけてくださり、あらゆる形で私たちが神様に立ち帰るよう働きかけておられる。外から無理矢理ではありませんけれど、内側から進んで悔い改め、信仰を持てるようにと働いてくださる。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」
という通りです。ただ、そこには、私たちの外側のこと、生活だの外見だのも入るのですが、一番肝腎なのは、やはり私たちの「心」ですね。見えはしませんが、私たちの思いや行動の根っこにある心。「生活の座」、一番奥に隠している「自分」、そこに神に対する罪があります。自分が神になろうとする。あるいは、神にさえ触らせるもんか、と思っているエゴがある。そこが神様の前に正されない限り、決して神様が私たちを喜ぶことはあり得ません。私たち人間には決して自分の力で直すことは出来ません。そこで、イエス様がおいでくださった。私たちを幸せにするとか、欲しい生活をくれるとか、そういうためにではなく、私たちを治めるため、私たちの心の一番奥底までも、神様の光によって照らし出して、罪を認めさせて、自分が神ではなく、まことの神を神として歩ませるためです。自分が王様ではなくて、イエス様を王としてお迎えして歩むようにならせるためです。
 王であるイエス様が来られたとき、みんながそのイエス様を大歓迎したでしょうか。凱旋行列を造ってお迎えすべきお方のパレードをしたでしょうか。いいえ、今日のマタイの福音書が伝えているクリスマスの記事は、イエス様を殺そうとしたヘロデが、周囲の二歳以下の男の子を皆殺しにした、という出来事を語っています。残酷な記事です。クリスマスには相応しくないような、読むに堪えない事実です。ここを読まない教会も多いでしょう。しかし、世界で祝われるクリスマスには、必ずここも読む。クリスマスの劇をするときは、この幼児殺しまでちゃんと演じるという伝統もあるのだそうです。それは、自分たちが、独裁者の圧政に苦しんだとか、敵の支配下で子どもを殺されたとか、そういう歴史がある町や村が、ヘロデの幼児殺しまで演じるのだと、何かで読んだことがあります。そういう、残酷な歴史を肌で知っている人たちにとっては、クリスマスがそういう暴力のただ中で起きたという事実に、深い意味を見出している。これをカットしてしまったら、なんとも薄っぺらい話になる。そう思われているのでしょう。
 私たちもまた、イエス様を王として知り、心にお迎えし続ける必要のある者です。クリスマスや日曜だけイエス様を誉め称えはしても、いつしかすぐに自分が王様になる。神様にも誰にも従いたくない、と思う自分がいる。その末はヘロデの姿です。今年、シャロンの会で学びました子育ての話では、子どもは周りを支配しようとするものだけれども、大人になっていくとは、周りを変えようとするのでなく、自分の行動や感情や生き方に責任を持てるようになることだ、ということを軸に学び続けました 。けれども私たちは何とそれを間違えやすいことでしょうか。そうかと思えば、イエス様が王として私を捉えていてくださる、すべてに働いていてくださる、と信じられず、疑ってしまう。
 勿論、神様が働いてくださるのだから何もしなくていい、ということではありません。博士たちははるばる東から旅をし、ヨセフはマリヤと幼子を連れて、エジプトまで逃げなければなりませんでした。イエス様がこれ以上出来ない行動を取られたように、私たちも自分の力や知恵や忍耐を尽くして、行動していく。イエス様が王であられる、とは私たちがイエス様の足跡に、喜んで従って行く、ということでもあるのです。しかしそこにも、イエス様が私たちの王であられて、私たちを導き、守り、必ず支えていてくださる、という信頼が裏付けとしてあるのです。私たちを、御自身の民として、子どもとして、訓練し、新しくし、成長させてくださる。そう信じるのです。
 一昨日、陸前髙田に行き、被災地の現場を走って、保育園を周り、子どもたちへのプレゼントを届けてきました。喜んではいただきましたが、お話しを聞いたり、瓦礫の山や荒野のような場所を見て、圧倒的な無力感を感じてきました。私自身、自分の今を考えても、どうなるんだろう、どうすればいいんだろうと思う問題があります。クリスマスは、そういう私の所に、人間のどうしようもない現実の中に、イエス・キリストがおいでになった。ひっそりと、けれども確かに王であるお方がおいでになって、そこに必ず御業を進めてくださっている、というメッセージでもあるのです。どうかそのことを信じて、そしてその主に従う柔らかな心もいただいて、クリスマスの喜びに歩んでいきたいと願うのです。

「その誕生とご生涯の貧しさによって、私共を本当に豊かに、深く、治め、あなた様の愛に似せてくださる恵みを感謝します。どうぞ頑なな心を恵みによって砕き、主の喜びに満たしてください。王である主。あなた様に従わせてください。御心が見えない時にも、心に光を灯して、望みに生かし、恵みの器として強めてください。御国が来ますように」


文末脚注

1 ミカ書は、紀元前八世紀から七世紀ごろに書かれたと考えられています。
2 たとえば、讃美歌101番「君の君なれどマリヤより生まれ、うまぶねの中に産声をあげて」、107「黄金の揺り籠、錦の産着ぞ、君にふさわしきを」など。
3 ローマ書八28。
4 ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント『聖書に学ぶ子育てコーチング』(あめんどう、中村 佐知訳、2011年)

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