聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/28 アモス書9章8-15節「破れを繕う神 一書説教 アモス書」

2021-02-27 12:57:30 | 一書説教
2020/2/28 アモス書9章8-15節「破れを繕う神 一書説教 アモス書」[1]

前奏 
招詞 マタイ11章28~30節
祈祷
賛美 讃美歌11「天地にまさる」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読 詩篇23篇(6)
賛美 讃美歌237「御神の深き御旨の」①②
聖書 アモス書9章8~15節
説教 「破れを繕う神 一書説教 アモス書」古川和男牧師
賛美 讃美歌237 ③④
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌545上「父の御神に」
*祝祷
*後奏

 アモス書1章1節によれば、アモスはエルサレムの南の町テコアの牧者でした[2]。
テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。

 イスラエル王国が南と北に分裂していた時代に、南の農民であったアモスが主に召され、北のベテルに遣わされて主の言葉を語ったのです。北イスラエルの王はヤロブアム(紀元前十世紀の北イスラエル最初の王もヤロブアムですから「ヤロブアム二世」と呼ばれます)、紀元前八世紀です。
 この時代は、北イスラエル王国の全盛期でした。イスラエルの周辺諸国の脅威が小さくなり、ヤロブアム王は領土を最大に拡大し、経済的にも非常に富んだのです。しかし、その富を富裕層が独占して、貧民はますます借金漬けになっていた。不正が合法的になされて、社会の弱者が声をあげることもできない、という状況でした。2章6節以下、その背きが糾弾されます[3]。
「主はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。7彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。…」

 こうしてアモスは、主がイスラエルの中で行われている社会的な不正を責めて、その報いを告げるのです。北イスラエルは事実上の偶像崇拝をしている問題もありました。しかし、アモス書はその礼拝の間違いを責めません。むしろ、礼拝や生け贄には熱心でも、その社会に不正や搾取が居座っているなら、そんな礼拝を神は喜ばれるはずがない、と非難するのです。
 目に見えない神を形の上で正しく礼拝しているかより、目に見える隣人や他者との関係の正しさを神は問われます[4]。アモス書5章24節は有名で、大事な言葉です[5]。
アモス五24
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。

 アモス書はこの「正義」を繰り返して強調します[6]。これは、「人間を生かしてくれる神の恵みの力のことも示している」義です。神が私もあの人も生かしておられる、という感謝が正義です。自分の力で生きている、幸福を勝ち取る、他者を押しのけてでも自分の幸せを守る。そういう事であれば、事実上、力とか富とか自分の居心地良さを崇める、貪りという偶像崇拝なのです[7]。そこに神への本当の感謝も弱者への配慮もなく、他者を蹂躙するのは当然です[8]。
 アモスは非常に激しい言葉で、「わざわいだ」とか、将来の「捕囚」という予告を初めて明言した預言者です[9]。そして、アモスから数十年後、紀元前七二二年に、預言通り北イスラエル王国はアッシリア帝国の侵略によって滅亡します。アモス書の厳しい言葉は成就しました。
 しかし、それだけではありません。今日読んだ9章の11~12節で主は言われます。
「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。12これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主のことば。」
 これが使徒の働き15章16-18節で引用されます[10]。厳しいアモス書の終わりに語られる主の言葉です。倒れた仮庵を起こし、破れを繕い、建て直す、回復させる。また、農夫だったアモスらしく、葡萄畑や果樹園の光景で将来像が描き出されます。厳しい裁きの末に、こういう回復が語られます。緊張を緩めさせかねないと戸惑います。しかし、使徒の働きは、このアモスの言葉をもって、「すべての異邦人が主を求めるようになる」というご計画を確信するのです。ユダヤ人も異邦人も、ともに主の民となるという、救いの大きな物語を確認しました[11]。
 だから今ここでも、異邦人を躓かせたり、他者を踏みつけたり、弱者を利用したり排除するような扱いを拒む、という順番です。排除は、私たちの中にある「破れ」を癒やそうともせず、もっと引き裂くような事だからです。そうしたすべての破れが癒やされて、私たちが回復されて、ともに生きることをこそ主は求められます。「助け合わなければならない」「不正をしてはならない」という道徳ではないのです[12]。求められるのが道徳なら、それが出来にくい人、破れた人がダメな人として排除され、ますます希望のない、冷たい社会になります。

 主が求めているのは私たちの回復――破れた私たちの関係の回復です。だから、主は破れた私たちを捨てるより、破れを繕います。
 私たちを癒やされ、将来の回復に向けて、導かれます。
 ダメな人などいない、誰もが破れていて、その破れた同士が、なお神に愛され、繕われて、互いに尊び合う神の国へと歩んでいます。
 その不正や愛のなさを糾弾して終わらず、将来の回復を豊かに描かれるのです。
 罰して責めて終わる以上に、回復と希望の言葉に聞き続けます。

 新約の使徒たちは、アモス書の厳しさを、神の大きな希望の中で受け止めて、教会を整えました。今ここに生きる私たちも、アモス書の中に自分を置く時、教会の指針を戴きます。主は、世界の破れを真剣に嘆かれるお方です。そして、その主が破れを繕うと言われています。その約束に、私たち自身の破れを繕って戴き、この恵みの光の中でともに歩ませていただくのです。

「私たちを愛し、成長させる主よ。あなたは、ご自身の理想より、私たちを愛し、私たちを成長させてくださいます。私たちが自分の理想や社会、教会への理想以上に、ここにある現実の一人一人を愛する者としてください。豊かさや安全に安住して、人を押しのけてしまう罪からもお救いください。私たちに出来る行動をさせてください。そして、さばいて終わる言葉からも救い出し、あなたの様々な恵みに励まされて、生かし合い育て合う歩みをお与えください」

脚注:

[1] 今回も、聖書プロジェクト「アモス書」https://youtu.be/rPhOURANFL8と、四日市キリスト教会「一書説教 アモス書 選び出された者として」を参考にしました。

[2] 1章1節「テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。」この「牧者」ノーケードは「羊飼い」ですが、7章14節の「牧者」ボーケールは「牛飼い」の意味です。

[3] アモス書の最初は、1:3~2:3で、神がイスラエルの周辺諸国を糾弾される言葉が続きますが、周囲の七つの国を一つ一つ攻めた最後に、ユダ、そしてイスラエルが断罪されます。他人事ではなかったのです。

[4] Ⅰヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」

[5] アモス書5章25-27節「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。26あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。27わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す――その名が万軍の神である主が言われる。」。使徒の働き7章42-43節(ステパノの説教)「そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。43あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたをバビロンのかなたへ捕らえ移す。』」 面白い事に、ステパノはアモス書にある固有名詞を変えます(下線部)。それはアモスの責めた北イスラエルと、ステパノの時代のユダヤ民族では状況が違うからです。北イスラエルは偶像崇拝をしていたし、ステパノの時代のユダヤの民は捕囚の反省を踏まえて、厳格な一神教を守っていました。でも、その神との関係を盾にして、主イエスが始めた神の国のあり方、教会の宣教に頑なに抵抗せずにおれない。それは、結局、アモスの時代と変わらない罪だとステパノは指摘したのです。

[6] 「公義ミシュパート」と「正義ツェダーカー」 5:7,24、6:12

[7] エペソ5:5「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」、コロサイ3:5「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」

[8] 岩井謙太郎「アモスと神の正義」、中部学院チャペルアワー「日本語の正義という言葉は、イスラエルの言葉ではツェダーカ等と言いますが、ツェダーカは単に社会的次元での正義の話だけには尽きない意味があると言われています。この正義は、人間(動物・植物等生きとし生けるものすべて)を生かしてくれる神様の恵みの力のことをも示しているのです。イスラエルの社会では、神様への礼拝とは、人間が神様の恵みによって生かされていることを感謝するためのものでした。そして、この感謝に対する応答には社会的弱者への配慮(社会的正義の実現への要求)も含まれているのです。裏を返せば、社会的弱者への配慮が見られなかったイスラエルにおいては、本当の意味で自分達が神様に生かされていることに対する感謝がなかったのかもしれません。そのような感謝こそが神様への礼拝の一番大切なことであるとしたならば、預言者アモスにとっては、イスラエルの人々の神殿での神様に対する礼拝が形骸化したものに見えていたに違いありません。つまり、真実の感謝(神への正しい関係)と応答(隣人愛・社会正義)の関係が見られない形骸化した神殿礼拝をアモスは批判したと言えましょう。

[9] アモスは初の「記述預言者」であり、それ以前の預言者(エリヤ、エリシャなど)よりも記録に残る形で、民に神の言葉を語ります。

[10] 使徒の働き15章16~18節「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。17それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。18――昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』」

[11] そして、既に、アモス書の中にも、希望は随所に語られていました。たとえば、3:12「主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。」

4:6~12の「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」の五回繰り返し

4:12「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」13見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思い意が何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。

5:6~8「主を求めて息よ。そうでないと、主は非のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。7彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。8すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主。」

14~15「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。15悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。」

24「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」

7:1~6「神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。2 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」3 主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。4 神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。5 私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」6 主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。」

[12] 道徳と倫理に関して、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチェ、2020年)の34~42頁に詳しい考察があります。大変興味深いので、一読をお勧めします。下に、引用されている表(道徳と倫理の区別、古田徹也『それは私がしたことなのか』エピローグより)を紹介しておきます。

道徳 (moral)

倫理(ethics)

画一的な「正しさ」「善」を指向する


→ 万人に対する義務や社会全体の幸福が問題となる

「すべきこと」や「生き方」全般を問題にする


→ 「自分がすべきこと」や「自分の生き方」という問題も含まれる。

非難と強力に結びつく


→ 「すべき」が「できる」を含意する

非難とは必ずしも結びつかない


→「すべき」が必ずしも「できる」を含意しない

人々の生活の中で長い時間をかけて定まっていった答えないし価値観が中心となる

答えが定まっていない、現在進行形の重要な問題に対する検討も含まれる

価値を生きること

価値を生きるだけでなく、価値について考え抜くことも含まれる


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