[1] 今回も、聖書プロジェクト「アモス書」https://youtu.be/rPhOURANFL8と、四日市キリスト教会「一書説教 アモス書 選び出された者として」を参考にしました。
[2] 1章1節「テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。」この「牧者」ノーケードは「羊飼い」ですが、7章14節の「牧者」ボーケールは「牛飼い」の意味です。
[3] アモス書の最初は、1:3~2:3で、神がイスラエルの周辺諸国を糾弾される言葉が続きますが、周囲の七つの国を一つ一つ攻めた最後に、ユダ、そしてイスラエルが断罪されます。他人事ではなかったのです。
[4] Ⅰヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」
[5] アモス書5章25-27節「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。26あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。27わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す――その名が万軍の神である主が言われる。」。使徒の働き7章42-43節(ステパノの説教)「そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。43あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたをバビロンのかなたへ捕らえ移す。』」 面白い事に、ステパノはアモス書にある固有名詞を変えます(下線部)。それはアモスの責めた北イスラエルと、ステパノの時代のユダヤ民族では状況が違うからです。北イスラエルは偶像崇拝をしていたし、ステパノの時代のユダヤの民は捕囚の反省を踏まえて、厳格な一神教を守っていました。でも、その神との関係を盾にして、主イエスが始めた神の国のあり方、教会の宣教に頑なに抵抗せずにおれない。それは、結局、アモスの時代と変わらない罪だとステパノは指摘したのです。
[6] 「公義ミシュパート」と「正義ツェダーカー」 5:7,24、6:12
[7] エペソ5:5「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」、コロサイ3:5「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」
[8] 岩井謙太郎「アモスと神の正義」、中部学院チャペルアワー「日本語の正義という言葉は、イスラエルの言葉ではツェダーカ等と言いますが、ツェダーカは単に社会的次元での正義の話だけには尽きない意味があると言われています。この正義は、人間(動物・植物等生きとし生けるものすべて)を生かしてくれる神様の恵みの力のことをも示しているのです。イスラエルの社会では、神様への礼拝とは、人間が神様の恵みによって生かされていることを感謝するためのものでした。そして、この感謝に対する応答には社会的弱者への配慮(社会的正義の実現への要求)も含まれているのです。裏を返せば、社会的弱者への配慮が見られなかったイスラエルにおいては、本当の意味で自分達が神様に生かされていることに対する感謝がなかったのかもしれません。そのような感謝こそが神様への礼拝の一番大切なことであるとしたならば、預言者アモスにとっては、イスラエルの人々の神殿での神様に対する礼拝が形骸化したものに見えていたに違いありません。つまり、真実の感謝(神への正しい関係)と応答(隣人愛・社会正義)の関係が見られない形骸化した神殿礼拝をアモスは批判したと言えましょう。
[9] アモスは初の「記述預言者」であり、それ以前の預言者(エリヤ、エリシャなど)よりも記録に残る形で、民に神の言葉を語ります。
[10] 使徒の働き15章16~18節「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。17それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。18――昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』」
[11] そして、既に、アモス書の中にも、希望は随所に語られていました。たとえば、3:12「主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。」
4:6~12の「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」の五回繰り返し
4:12「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」13見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思い意が何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。
5:6~8「主を求めて息よ。そうでないと、主は非のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。7彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。8すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主。」
14~15「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。15悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。」
24「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」
7:1~6「神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。2 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」3 主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。4 神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。5 私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」6 主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。」
[12] 道徳と倫理に関して、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチェ、2020年)の34~42頁に詳しい考察があります。大変興味深いので、一読をお勧めします。下に、引用されている表(道徳と倫理の区別、古田徹也『それは私がしたことなのか』エピローグより)を紹介しておきます。
道徳 (moral) | 倫理(ethics) |
画一的な「正しさ」「善」を指向する → 万人に対する義務や社会全体の幸福が問題となる | 「すべきこと」や「生き方」全般を問題にする → 「自分がすべきこと」や「自分の生き方」という問題も含まれる。 |
非難と強力に結びつく → 「すべき」が「できる」を含意する | 非難とは必ずしも結びつかない →「すべき」が必ずしも「できる」を含意しない |
人々の生活の中で長い時間をかけて定まっていった答えないし価値観が中心となる | 答えが定まっていない、現在進行形の重要な問題に対する検討も含まれる |
価値を生きること | 価値を生きるだけでなく、価値について考え抜くことも含まれる |
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