聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/28 ミカ書7章18~20節「小さい町から王が出て 一書説教 ミカ書」

2021-11-27 12:50:07 | 一書説教
2021/11/28 ミカ書7章18~20節「小さい町から王が出て 一書説教 ミカ書」[1]

 今日からアドベントです。交読しましたマタイの福音書には、キリストの誕生の場所が、
「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
と答えられた事が書かれています。この言葉は旧約のミカ書5章2節の言葉です。今日は、このミカ書から一書説教をして、ここから預言されているキリストの誕生の恵みを覚えます。

1章1節「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」

は紀元前八世紀です[2]。当時、イスラエルは北と南に分裂していました。どちらも経済的に絶頂期を迎えた頃でした。豊かになった分、格差が生じ、富裕層の搾取が横行していました。また近隣諸国も力をつけ[3]、新旧交代をし、新興のアッシリア帝国は北イスラエル王国を滅ぼしてしまう。波乱の時代です。ミカ書は、イスラエルの民の罪、とりわけ権力者たちの横暴を責めて[4]、アッシリアやバビロンの侵略を警告します[5]。王や富裕層の我が物顔の時代はまもなく終わることが告げられるのです[6]。
 ミカ書は「聞け[7]」の繰り返しを目印に、大きく三つの部分に分けられます[8]。それぞれに指導者たちの罪が責められます。しかし、その後には回復の希望が必ず語られるのです。崩壊の先には、神が無条件に回復を備えている、虐げられていた人々が集められる喜び神の国があるのです[9]。それも、第一部は2章12~13節[10]、第二部は4章1~7節[11]、そのあとに4章8節~5章14節の大きな将来像の幻があり、最後第三部も、7章8~20節が確かな救いと希望を語ります。段々、回復の約束が長くなるのです。人間が神を差し置いて支配者となっている時代は必ず終わる。その先には神が本当の支配者として来られ、平和の国をお建てになる。その中で、
5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」[12]
という言葉が語られるのです。それは、当時の有力者たちが自分の権力に胡座をかいている中、失墜が告げられて、足元のベツレヘム、あまりにも小さいと言われる町から、治める者(王)が登場するという、大変皮肉な言葉でした。それが、マタイの福音書で引用されます。その時も残酷なヘロデ大王がエルサレムに君臨して、自分の王座を暴力的に守っていて、権力の座のためには、生まれるキリストも殺そう、ベツレヘムの幼児も皆殺しにしよう、としました。そうした社会のあり方そのものが、ミカ書の非難したことであり、そして、その人間の支配をひっくり返す、神の支配が来ることをミカ書が預言していて、この言葉があるわけです。

 また、預言者ミカはとても強い言葉で指導者たちの罪を責めますが、最後の7章では彼の悲しみが吐露されます。また、彼自身、自分の罪をも深く自覚しています。

7:9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。[13]

 ミカ自身、自分の罪を認めています。しかし、その罪を正しく裁いてくださる主に望みを置いています。ですから、このミカ書の最後は、独特な深みを持った慰めで閉じられるのです。

7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。
あなたは咎を除き、
ご自分のゆずりである残りの者のために、
背きを見過ごしてくださる神。
いつまでも怒り続けることはありません。
神は、恵みを喜ばれるからです。
19 もう一度、私たちをあわれみ、
私たちの咎を踏みつけて、
すべての罪を海の深みに投げ込んでください。[20節略]

 海は最も深くて1万メートル、平均しても富士山より深い4千メートル以上です[14]。しかし、聖書の時代は、海は死者を呑み込む底知れない場所だと恐れられていました。その海の奥底に、私たちの罪をあなたは投げ入れて下さる。もう引き戻したり、思い出したり出来ないほど、手の届かない所に投げ打って下さる。そういう神への告白がミカ書の結びなのですね。[15]

 神は、人の不正を悲しみ、人が神を差し置いて世界を守ることなど出来ないことを知って、警告と希望を語られます。そして神は、人の世界では最も小さい町から王を出したり、罪に嘆く者の罪を海の底に投げ込み、絶望の先に回復があることを語る王です。そして、その約束がやがて本当に事実となり、キリストがこの世に来られました。小さな町ベツレヘムにお生まれになり、罪人の友となり、権力者に立ち向かいました。私たちの罪を海の深みに投げ込む所か、ご自身が天からこの世界に飛び込んで来られ、よみの深みにまで飛び降りてくださいました。この方こそ、永遠の昔から定められていた、私たちを本当に治めてくださる不思議な王です。

 「あなたのような神がほかにあるでしょうか」とミカは言いました。「ミカ」という名前自体が「誰が主のようであるか(=他にいない)」という意味なのです[16]。主のような神は他にいない。咎を除き、怒り続けず、恵みを喜ばれる神。私たちの罪を海の深みに投げ込まれる神。そして、クリスマスでお祝いするように、この世界の最も小さい町に生まれて、十字架にまで、よみにまで降ってくださった。こんな主は他にいない。この方が私たちの神であられるのです。
ミカの時代、イエスの時代、そして、今の私たちの時代も、これは私たちの告白です。主が神でいてくださる。今も最も小さい場所から、主は働いてくださる。私たち人間の失敗や絶望を超えて、主が私たちの真ん中でも、私たちの側にも、回復を備えておられる。こんな神は他にいるでしょうか。そう思えばこそ、私たちは、自分が神になろうとする思いを手放して、公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、私たちの神とともに歩むことができるのです。[17]
「主よ。あなたが神であり、世界を導き、小さなベツレヘムに来られた王であることを賛美します。今、私たちの置かれているこの時、罪や無力さに向き合いつつ、あなたが王であり、回復の希望を語ってくださることを感謝します。あなたご自身が最も低い所に来られて、御業をなさるお方です。私たちのただ中に、また私たちの心の奥深くに、おいでください。このアドベントが、本当に今ここで、あなたを待ち望む時、あなたにお会いする時でありますように」



脚注

[2] 1:1「ユダの王ヨタム[前750-732]、アハズ[743-716]、ヒゼキヤ[729-687]の時代に、サマリアとエルサレムについて見た幻」南ユダから、サマリアとユダとの問題を預言して責めた。

[3] このペリシテとの境界にあったのが、ミカの出身地モレシェテでした。「モレシェテ ペリシテと国教を接するシェフェーラーと呼ばれる低地にある…エルサレムの南西30-40kmほどの所にある。(『バイブルnavi』947頁)」

[4] ミカ書に上げられる罪状は、詐欺(2:2)、盗み(2:8)、貪り(2:9)、放蕩(2:11)、圧政(3:3)、偽善(3:4)、異端(3:5)、不正(3:9)、恐喝や嘘(6:12)、殺人(7:2)など。

[5] アッシリアについては、5:5「平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。6彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。」、また、7:12「その日、アッシリアとエジプトの町々から、エジプトから大河まで、海から海まで、山から山まで、あなたのところに人々がやって来る。」。バビロンについては、4:10「娘シオンよ。子を産む女のように、身もだえして、もがき回れ。今、あなたは町を出て野に宿り、バビロンまで行く。そこで、あなたは助け出される。そこで、主があなたを敵の手から贖い出される。」

[6] 一〇〇年後のエレミヤ書では、ミカの名前が遡って言及されます。エレミヤ書26:18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の主はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。19そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」

[7] ヘブル語「シムウー」。1:2(すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。)、3:1(私は言った。「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を知っているはずではないか。)、3:9(これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。)、6:1(さあ、主の言われることを聞け。立ち上がれ。山々に訴えよ。もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。2山々よ、聞け。主の訴えを。変わることのない地の基よ。主がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される。)、6:9(主の御声が都に向かって叫ぶ。──あなたの御名を恐れることは英知だ──「聞け、杖のことを。だれがその都を指定したのか。)

[8] アウトライン:

1~2章 サマリアの荒廃とエルサレムへの警告 2:12~13 回復の希望

3~4章 エルサレムに対する神のさばき 4:1~7 シオンの回復

4:8-5:14 アッシリア、バビロン捕囚、回復

6-7章 不正な経済システム 7:8-20 確かな救いの希望と懇願

[9] 4:6 「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。7わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。8あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」

[10] 2:12「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。13打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」

[11] 4:1-7「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。2多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。3主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。4彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の主の御口が告げる。5まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。6「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。7わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。」 この1~3節は、イザヤ書2章3~4節と酷似しています。同時代ゆえ、影響があったと思われます。どちらが先か、は諸議論あり断定できません。

[12] この言葉は、更に続く7節まででも「彼は」と繋がって、具体化されています。5:3「それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。4彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。そして彼は安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てにまで及ぶからだ。5平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。」 また、ミカ書がここまで語ってきた、とこしえの王の約束ともつながっています。4:7(わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。8あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」)、

5:6 彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。

[13] 7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。8私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。9私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。10私の敵はこれを見て恥におおわれる。彼らは、私に向かって「あなたの神、主は、どこにいるのか」と言った者たちだ。私の目は、確かに見る。今に、敵は道の泥のように踏みつけられる。

[15] 英語聖書は、主なものはどれも、「深みに投げ込んでください」と祈願ではなく、「投げ込んでくださいます」と終止形で訳しています。聖書協会共同訳も「主は私たちを再び憐れみ/私たちの過ちを不問にされる。/あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる。」と終止形です。

[16] ミカ 誰が(ミー)あなたのよう(キー)主よ(ヤハ) 7:18

[17] ミカ書6章6~8節「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼ささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。7主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。8主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」 この言葉自体が、過去の「こうすべき」だった規準ではなく、現在も、将来も、変わらず求められている生き方であることに注意。散々、神の正義に反して生きている民に告げられた言葉である。彼らにはもう希望がないのではないこと、そして、彼らの「救い」とは滅びからの救い以上に、御心に生きることそのものである。

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