聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問59「素晴らしい日曜日」 創世記1章1~5節

2015-07-20 08:05:19 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/07/19 ウェストミンスター小教理問答59「素晴らしい日曜日」創世記1章1~5節

 

 今日は安息日について教える、第四戒の二回目を見ましょう。前回もお話ししたように、特に夕拝の皆さんは覚えておいてください。自分はこの安息日の律法を守れていない、朝の礼拝に来なかった、とだけ考えて、負担に思わないでください。この律法は、私たちを、解放するために与えられたものです。「日曜日は仕事や用事を差し置いて、とにかく礼拝に来なければならない」という形式的な義務が命じられている、と思ってしまっていたら、それは逆です。神様は私たちに負担を与えたいのではありません。重荷を下ろして休みなさい、と言って下さったお方です。私たちを休ませたいのです。

 そう考えると、今日の問59は、更に分かりやすくなるのではないでしょうか。

問59 神は、七日のうちどの日を、週ごとの安息日に定めておられますか。

答 神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と定めておられました。そしてそれ以降は、引き続き世の終わりまで、週の第一日を安息日と定められました。これがキリスト教的安息日です。

 ここで直接問題にしているのは、曜日の変更、ということです。

 旧約時代は、安息日はずっと土曜日でした。第七日が「安息日」であって、今でもユダヤ教徒は、土曜日を安息日として守っています。今でもエルサレムに行くと、イスラム教徒の住む地区は金曜が安息日で、ユダヤ教徒の地区は土曜日が一斉にお休みになって、次の日曜日にはキリスト教徒の地区が店を閉める。そういう移り変わりを見ることが出来るそうですね。

 ここで問題になるのは、安息日はどうして土曜から日曜になったのか。教会が十戒を守ると言いながら、勝手に土曜日から日曜日に買えたことは理にかなっているのか、という疑問です。実際、セブンスデーアドベンチストという教団は、その名の通り、セブンスデー(七日目)を安息日として守っています。でも、教会は、その初期から、土曜日ではなく、日曜日を「主の日」と呼んで、自分たちが集まって礼拝をする日としていました。「週の初めの日に」献金を集めるように、という指示もあります。ヨハネの黙示録では、その啓示を与えられたのは「主の日」だったと書かれています。

 そして、何よりも、イエス・キリストがよみがえられのは、日曜日でした。

 聖書では繰り返し繰り返して、「週の初めの日のこと」と復活のことが書かれています。そして、その福音書が書かれた時には、キリスト教会の礼拝が日曜日に行われていたのだとしたら、マタイもマルコもルカもヨハネも、読者である人たちに対して、自分たちが毎週集まっている礼拝とキリストの復活とを結びつけてほしかったに違いありません。

 ユダヤ人の発想で言えば、キリストがよみがえるのは、自分たちの安息日である土曜日であるべきだったでしょう。あるいは、人が造られた金曜でも許せたかもしれません。しかし、キリストは金曜でも土曜でもなく、週の初めの日の朝によみがえられました。それは考えてみれば不思議なことでしたね。そして、聖書には、その日にイエスとすれ違って会えなかった弟子のトマスのために、イエス様はもう一度弟子たちのところに現れたとありますが、それもまた、翌日でも、金曜でも、土曜でもなく、一週間後の日曜日でした。

やっぱり、イエスはわざわざ週の初めの日を選ばれて、よみがえり、弟子たちに姿を現されたのだとしか思えませんね。

 イエス様がよみがえられたことは、物凄い奇蹟です。私たちのために十字架にかかって死なれ、よみがえられた、というのはとてつもなく大きな御業です。その日を覚えて、教会が週の初めの日に礼拝に集まり続けたことは、当然のことです。そして、その後の「週の初めの日」に、聖霊が弟子たちの上に注がれました。

さらに、ヨハネに新天新地の幻が示されたのも「週の初めの日」でした。

そして、もっと遡って、聖書の最初には、初めの日に、神が天と地を造られ、何もなかった世界に光を照らされたと書かれていますね。

 週の初めの日は、天地創造の日、光が作られた日、イエスが復活なさった日、聖霊降臨の日、そして、黙示録でヨハネに新しい世界の幻が示された日です。すばらしい日ですね! そして、私たちもまた、いまここで、主の日に集まっています。

 こうしたメッセージが合わせて示しているのは、神が天地を造り、光を与えてくださったことです。世界を作り、光を与えられた神は、今も私たちのうちに御業をなしておられます。私たちをその素晴らしい御業に与らせてくださいます。やがて新しい、永遠の天と地をお造りになります。その力を以て、途中にある私たちの中にキリストがおいでになり、十字架と復活というみわざを果たしてくださいました。それは、私たちを新しくするための創造のみわざです。

Ⅱコリント五17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 私たちが安息日を通して覚えるのは、この大いなる創造主であり、恵みに輝く主です。この方を礼拝するとき、私たちは、本当にこの方の偉大さに心を打たれます。私たちは、この神様をいつのまにか忘れて、自分の狭い考えに生きてしまうのではないでしょうか。神抜きの考えで毎日を生きて、働いて、イライラしたり、疲れたり、苦々しい思いで生きてしまいませんか。神が作られた世界であり、いのちなのに、私たちの社会は、神という王などいないで、勝手に動いているかのように思っています。ですから、主がイスラエルに命じられた十戒で、「安息日を聖とする」生活を命じられました。それは、決して、宗教的な命令ではありません。礼拝のための義務ではありません。むしろ、社会全体が、神を中心として営まれるという本来の姿、やがて始まる確実な現実を覚えるためです。そして、何よりも、私たちは、この世界に主イエス・キリストが来てくださり、十字架にかかり、日曜日によみがえってくださったことを、覚えて日曜日を迎えます。

 安息日に仕事を休んだり教会に来たりすることには、決して私たちを休ませる力はありません。ただ、イエスが、私たちを休ませてくださるのです。私たちの重荷を担ってくださるお方です。私たちに、「ここにおいで。休んで、わたしとともにおいで。わたしはあなたとともにいたいんだ。わたしとともにいるなら、あなたはわたしの喜びを持つ。自由になる。勇気と愛が与えられる。さあ、重荷を下ろして。あなたの心の闇に光を照らしてあげよう」そう言われるのです。この方の声に聴いて、安息をいただくことは私たちにとって、どうしても必要なことです。どうか、主の安息を大切にしましょう。

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