かずの里山ハイク

山や花、日常の出来事などの気まぐれブログ

白い花

2007年01月19日 | 雑記
寒ボケやロウバイ、ウメなどの開花情報が聞かれるこの頃、例年なら白い花を観賞しているはずだが中々実現しない。昨年見送ったのでもう2年越しになってしまった。
明日も急な仏事もあったりして出かけられそうもない。

この時期庭の花も少なく寂しいが11月に広縁に取り込んでおいたランの一部がつぼみをつけ始めた。夏季の管理が不十分ですべての鉢が開花はしないだろうが待ち遠しい。

このところネタ不足でブログにも写真を貼っていない。幸いにも畑の野菜やかんきつ類は順調に育っている。絵にはならんだろうが野菜の写真でも撮ってみようか?

今週もあわただしく過ごし、面接3件までこぎつけることが出来た。状況は決して楽観を許さないが好結果となることを祈っておこう。

暗黙知?

2007年01月18日 | 雑記

団塊の世代の大量退職が始まる2007年問題のひとつに暗黙知の継承というものがクローズアップされている。暗黙知は文章で表すことの出来る形式知とは対極にある概念らしい。

従来日本の会社は暗黙知の継承がスムーズにされており、技術や物造りの根幹を支えていた。ところが近年の人員削減や派遣労働の常態化で暗黙知の継承が危惧されるようになっている。

バブルの崩壊やグローバルな競争の激化でやむを得ない一面はあるもののとても残念な気がしている。暗黙知は理論の理解と実践の積み重ねで身につけるものと思う。確かに情報処理の進化で暗黙知はある程度形式知にはなりうる。だが物造りの現場で本当にキーになる技術は形式知にはなり得ないと感じる。

物事すべてがデジタル的に処理が出来れば良いが、最後にはアナログ的な感性が決め手になるような気がしている。

仕事の成果は数字が見えやすく大事だろうが、数字で見えない部分も見ていかないと成熟した組織にはならないだろう。これは個人に例えると外面と内面、体と心の関係にも行きつく。内面も磨かないと片手落ちになるんだろう。


大過なく

2007年01月16日 | 雑記

報道によると岡山のある公園では早咲きの菜の花が例年より2週間早く開花を始めたらしい。世界的にも暖冬との報道がある。地球温暖化が予想以上に進行しているかも知れない。

このところ風邪気味ということもあり、気分も優れないが大過なく過ごせているので良しとしなくてはいけないだろう。自分でコツコツと進める仕事ならともかく組織や人との折衝が主な仕事になり、双方の要求をうまくマッチングさせる仕事は思うに任せずストレスもたまりやすい。

以前自己のプロフィールということで分析をしたことがある。それによるとどうやら専任、専門職指向があり、営業的な仕事には向かないらしい。長いこと製造業に従事し品質や設備の改善、システムの構築やその運用等そのほとんどの仕事は工場内部の仕事だったので知らないうちにそんな習性が身に付いたかも知れない。

経験上どんな仕事でも最低3年は従事しないと本質的なものは見えてこないと思っている。3年ぐらい従事し、ほぼ掌握できたかな?と思っていても5年経つと3年時点では見えていないことがわかってくる。

だが近年、情勢変化も激しく3~5年待ってくれない。企業側も短期で成果を求める。そんなことが熟練者不足の事態を招いている気がしないでもない。またじっくりと人を育てる余裕も無くなってきたようだ。こうなるともはや企業には頼らず個人として長期的な視野で自らを育てるしか術はなさそう。自分なりの長期的な目標を持たんといかんなぁ!


友、近来

2007年01月15日 | 雑記
現事務所に出向してからもう2年が経過しようとしている。出向元の仕事仲間と話をすることも少なくなった。元来、徒党を組んで何かをするような性格でも無かったので当然の成り行きとも言える。
だが退社した仕事仲間とは少なからず関わりを持つようにしている。年末から年始にかけてその仲間がひょっこりと尋ねて来る。

昨日もみかん園も営んでいる隣の市の元同僚がみかんをどっさりと抱えて話をしに来てくれた。お互いの近況も含め、よもやまばなしをしているとあっという間に3時間が経過していた。大したおもてなしも出来なかったが思い出話にも花が咲いた。

そう頻繁でもないがかっての部下から色んな相談事を受けることもある。特別な権限もある訳でもないのであまり役にも立たないが、なるべく傾聴しそのことで気持ちが少し楽になるのではと思っている。

深刻な話や耳の痛い話は誰も聞きたがらずに避けて通る風潮が最近あるような気がしている。誰でも苦境というものには遭遇することはあるはず。それを誰かに話したところで即解決にはならないが、なんでも話せる師や友がいることは自身幸せなことと思っている。その裏返しで何か相談事があったときはなるべく聞いてあげることにしている。そういう心の広さは常にもちあわせていたいものだ。

謙虚に生きる。

2007年01月13日 | 雑記

年が明けてはや2週間が過ぎようとしている。今週は仕事で中々思うようにいかず精神的にもかなり疲弊したようだ。なぜこんなに疲れるのだろう、こんな生活を続けていたらとても身が持たないと感じるようになってきた。
たしかに休日には山歩きや庭仕事などで気分転換はするようにしている。従来はそれでなんとか仕事に取り組むことが出来た。
これでいいのだろうかと考えてみると、それなりの努力を続けると自分の思いに近づけるといった期待が大きすぎるところにいきついた。
だが組織なり、人なりそれぞれに違った考えがあり、自分の思う方にもっていくこと自体に無理がある。自らを過信せずもっと謙虚に生きることが必要と感じる。

50歳過ぎから組織上のポジションも紆余曲折があり、また在籍先とは直接係りのない仕事に就くことになってから下手なプライドはすべて捨てたつもりだった。冷静に考えてみると捨てきれていない自分に気が付く。謙虚さや割り切りがあればあれほどストレスは感じないだろう。

最近の凶悪な事件をみると謙虚さとは裏返しの傲慢さが見え隠れする。しかも経済的に恵まれている人の犯行が目立っているような気がする。金を払えば欲しいものは手に入るし、快適と思われる生活は手に入る。うらはらに心は半比例して貧しくなっていったのではないだろうか。

夢を持ったり、高い目標を持ったり、志を持つことは悪いことではない。だが拝金に偏り過ぎると大事な何かを失うような気がしてならない。また最近の世相はその何かを軽視するようになってはいないだろうか。

思うようにいかなくてもそれを我慢でき、それをストレスなく受け入れるようになれれば色んなことへの処し方も変わり、より豊かな生き方が出来るのではないだろうか。

昨日、事務所のあるビル内ホールで飯ヶ岳散策会等でお世話になった樹木医で自然観察指導員、山口県環境パートナーにも就いておられるF氏にばったりと出会う。広報活動で訪問されたようだ。F氏とは散策会の他、市内某山岳会の40周年記念式典や他の山でも良くお会いしている。前日も某団体の山岳指導員のS氏にもばったり会ったし、最近どういうわけか山関係で面識のある方とばったりが多くなった。それぞれいきいきと活動されており、見習わないといけないことが多い。

画像は秋穂八十八ヶ所1番札所の大師寺。