教師という仕事
高校は校務分掌の中身を4つに分けていた。
1,生活(生徒指導)指導
校則を守らせ、学校内外の生活指導をする係
2,教務
時間割を作ったり、年間の行事予定表を作ったりする係
3,庶務
学校の運営に関する雑務一般の 係
4,補修学習をする係
この4つのうち、一番敬遠されたのは生活指導係、略して生指 である。
15歳から18歳という年頃は一番ややこしい年代である。
第二反抗期で、この辺で人生を狂わせると生涯取り返しの付かないことになる年代でもある。少年から目覚めて脱皮し、大人の仲間入りをする年代だが、彼らには大人の世界を受け入れられない未熟さがある。社会でもまれていないから当たり前だ。経験不足からくる未熟さを、暴力に訴えてでもカバーする面があるし、何よりも純粋で、すれていないことからくる大人社会への反感、反発など、理由なき反抗が多くある。
その反抗を生徒達は学校で吐こうとする。大人から見ると、それはほぼ受け入れないことばかりであり、そこには生徒と教師の間で摩擦が起こる。ところがいわゆるわるガキにとっては学校というとある種の解放区にもなっている。
ただしここでは有名進学校の生指となれば話は別である。勉強に興味を示し、頭の中では有名大学へはいるためという希望の星が目の前にちらつくので、校則違反をおこして、説教をくらい、反省文を書かされることはマイナスでしかない。未熟者でもその程度のことは理解できている。
問題は勉強嫌いで、せめて高校ぐらいはと言う世間の波にのまれて渋々高校にやってくる生徒達である。
元々勉強は嫌いで、したがって成績の悪い生徒の集団を相手に、生徒指導をする係の中身はどんなものか。自分の授業を通して、どれほど大変かが分かっているから、よほど自分に自信があるか、学習成績の向上よりは人格形成に自負と信念を持っている教師しか、生徒指導係を希望しない。それでも僕は教師生活の大半は、生活指導を受け持ってきた。それは彼らの面倒を見て人間教育をしたかったわけでなく、希望者が少なく、なり手がなかったから穴埋めをしただけである。現代は僕らが教育を受けた時代とは様代わりして、偉いのは生徒のほうである
「おいこら。先公。なんでたばこを吸ったら悪いんじゃ。俺の金で買ったものを俺が
すうのはどこが悪いんじゃ。どこに迷惑をかけていると言うんじゃ」
「たばこは高校生には身体的に害があるから、国も学校も禁止している。違反すれば校則によって、反省文を書いてもらうことになる。」
「お前ら大人がかってにきめて。それを押しつけたらいいと、思っているかもしれないがそうはいかん。俺たちの言い分だってあるんだ。」
「君がそう思うのが勝手だが、いけないものを、いいと言って許可することは出来ない。生徒である以上は、校則を守ってもらわないと、学校が成り立たない。」こういう問答は
バイクについて、盛り場をうろついたり、酒を飲んだりすることについて、指導という名のつくものはどこまで行っても平行線である。
そこで思うのだが、勉強のいやなもは、また勉強に不向きなもの達は、社会に出て実学でもって人間形成をはかる方がどれだけ手っ取り早いか、と言うことである。
教師と言っても特段、人格が優れている訳ではない。もうはやらなくなったが「でも、しか」先生が大勢いる。そしてこれらは、先生という言葉は外から見た教師像として、的外れではない。
「ほかではつとまらないから、教師にでもなろうか。」とか「世間一般の常識が受け入れなくて教師しか務まらない」というのは教師集団のある一面をついている。
にもかかわらず、世間は先生というイメージに対して、尊敬と軽蔑という相反する
ものを抱いて、教師を見ている。
「あの先生は立派だ。先生を見習って立派な人間になりなさい」とか、
「ほら。あの先生にはかなわんよ」とか言って評価しているのは、今も昔も代わらない。
僕もデモシカ先生のくちだから、大きな口はたたけないが、考えようによっては、教師は希望の持てる職業だと思う。
高校は校務分掌の中身を4つに分けていた。
1,生活(生徒指導)指導
校則を守らせ、学校内外の生活指導をする係
2,教務
時間割を作ったり、年間の行事予定表を作ったりする係
3,庶務
学校の運営に関する雑務一般の 係
4,補修学習をする係
この4つのうち、一番敬遠されたのは生活指導係、略して生指 である。
15歳から18歳という年頃は一番ややこしい年代である。
第二反抗期で、この辺で人生を狂わせると生涯取り返しの付かないことになる年代でもある。少年から目覚めて脱皮し、大人の仲間入りをする年代だが、彼らには大人の世界を受け入れられない未熟さがある。社会でもまれていないから当たり前だ。経験不足からくる未熟さを、暴力に訴えてでもカバーする面があるし、何よりも純粋で、すれていないことからくる大人社会への反感、反発など、理由なき反抗が多くある。
その反抗を生徒達は学校で吐こうとする。大人から見ると、それはほぼ受け入れないことばかりであり、そこには生徒と教師の間で摩擦が起こる。ところがいわゆるわるガキにとっては学校というとある種の解放区にもなっている。
ただしここでは有名進学校の生指となれば話は別である。勉強に興味を示し、頭の中では有名大学へはいるためという希望の星が目の前にちらつくので、校則違反をおこして、説教をくらい、反省文を書かされることはマイナスでしかない。未熟者でもその程度のことは理解できている。
問題は勉強嫌いで、せめて高校ぐらいはと言う世間の波にのまれて渋々高校にやってくる生徒達である。
元々勉強は嫌いで、したがって成績の悪い生徒の集団を相手に、生徒指導をする係の中身はどんなものか。自分の授業を通して、どれほど大変かが分かっているから、よほど自分に自信があるか、学習成績の向上よりは人格形成に自負と信念を持っている教師しか、生徒指導係を希望しない。それでも僕は教師生活の大半は、生活指導を受け持ってきた。それは彼らの面倒を見て人間教育をしたかったわけでなく、希望者が少なく、なり手がなかったから穴埋めをしただけである。現代は僕らが教育を受けた時代とは様代わりして、偉いのは生徒のほうである
「おいこら。先公。なんでたばこを吸ったら悪いんじゃ。俺の金で買ったものを俺が
すうのはどこが悪いんじゃ。どこに迷惑をかけていると言うんじゃ」
「たばこは高校生には身体的に害があるから、国も学校も禁止している。違反すれば校則によって、反省文を書いてもらうことになる。」
「お前ら大人がかってにきめて。それを押しつけたらいいと、思っているかもしれないがそうはいかん。俺たちの言い分だってあるんだ。」
「君がそう思うのが勝手だが、いけないものを、いいと言って許可することは出来ない。生徒である以上は、校則を守ってもらわないと、学校が成り立たない。」こういう問答は
バイクについて、盛り場をうろついたり、酒を飲んだりすることについて、指導という名のつくものはどこまで行っても平行線である。
そこで思うのだが、勉強のいやなもは、また勉強に不向きなもの達は、社会に出て実学でもって人間形成をはかる方がどれだけ手っ取り早いか、と言うことである。
教師と言っても特段、人格が優れている訳ではない。もうはやらなくなったが「でも、しか」先生が大勢いる。そしてこれらは、先生という言葉は外から見た教師像として、的外れではない。
「ほかではつとまらないから、教師にでもなろうか。」とか「世間一般の常識が受け入れなくて教師しか務まらない」というのは教師集団のある一面をついている。
にもかかわらず、世間は先生というイメージに対して、尊敬と軽蔑という相反する
ものを抱いて、教師を見ている。
「あの先生は立派だ。先生を見習って立派な人間になりなさい」とか、
「ほら。あの先生にはかなわんよ」とか言って評価しているのは、今も昔も代わらない。
僕もデモシカ先生のくちだから、大きな口はたたけないが、考えようによっては、教師は希望の持てる職業だと思う。