日々雑感

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母の背中の子守歌

2011年10月30日 | Weblog
母の背中の子守歌

ちかごろ街で見かける乳幼児を前におんぶした母親が多いのには驚く。
今の今まで、子供は背中に背負うもとのだばかり思っていたが、どうも近頃は見かけない。どうして子供を背負わないのだろうか。
人間ひっくりけるというのは後ろ向きに倒れることは少なくて、こけるというと前にひっくり返ることのほうが圧倒的に多い。だから子供がけがをする確率が高い。
前におんぶひもでくくりつけるとは、いったい何事だ。これじゃ子供の安全第一が最優先されないではないか。若い母親が自分の格好よさを気にする前に、転んで子供にけがをさせること回避するすることが背中のおんぶの意味ではないのか。

歌の文句じゃないけれど、
背中に負われたのはいつの日か、、、、、母の背中で聞いた歌を道連れに 、、、
むかしから、子供は背中に背負うものと決まっている。そこには子供を育てる伝統的な知恵が凝集されている。
曰く。安全、体のぬくもり、眠りを誘うゆったりとしたリズム、それにゆっくりした単調な子守歌。等々。
母の背中に背負われた時に子供が感じるのは、何よりも母の体温のぬくもりである。ねんねこ、母の背中の体温の暖かさ、それに子守歌はセットじゃないかと僕は思う。

まだ西も東も分からない幼児にとって、もっとも安心していられるところは、母の背中である。だから、だだをこねて泣きじゃくる嬰児も背負われると、安らかな顔して夢路をたどるのである。
後ろに手を回して、ねんねこの上からとんとんとたたく、あの優しい拍子に促されて眠りにはいるのが、嬰児の常態である。

前おんぶ(と言うのかどうかは知らないが)では子供の顔は見えるかもしれないが、人格形成に大切な皮膚感覚のふれあいはない。前向きじゃ、子守歌も歌えない。
人間はどんなに大きくなっても、母に背負われた時のあのぬくもりや、母を思い出さずにはいられない。それは盲腸のように体内にへばりついている。それは時としてノスタルジアとして、失いかけた人間感覚を取り戻させてくれる場合だってある。

前に背負うほうが良いという特段の理由も見つからないのに、見てくれと言うだけで本質的は背中のおんぶが持つ、人格形成にとって貴重な皮膚感覚(これは理屈を超えている)をあえて放棄している現状を見るとき、どうも腑に落ちないと思うのは僕一人だろうか。 昨今のように人間関係が希薄になり、それが家族にさえ及んでいることを考えると、家庭における人間的なふれあい、口先だけで言うのではなく、体温を通してと考えることは 大変重要なことだと思うが。、、、、