日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

歌声喫茶の復活7-22

2011年10月26日 | Weblog

歌声喫茶の復活

僕たちは夫婦である。何十年も連れ添っているから、お互いにすれ違う部分もだいぶ、こすり合って角がとれてきた。それはちょうど川の石がお互いにぶっつかりあいながら時を経て、丸くなっていくみたいなものだ。が、歌に関しては好みが全然違う。
母ちゃんは未だに歌声喫茶である。
歌声喫茶と言えば、昭和30年代にはやったもので、青春時代の若者が集まって、アコーデオンの伴奏で入り口で、もらった歌詞カードを見て全員で歌うのが常だった。
誰が言ったのかしないが、清く正しく美しくみたいな感じがあって、そこで歌われる歌は、ロシア民謡、や日本の叙情歌、童謡、などの青春歌であった。
歌には恋心があったが、それは恋愛感情をオブラートでくるんであり、何となく高級趣味みたいな感じがした。まさに青春時代にはふさわしいものであった。
高齢者になった今でも、叙情歌は心の底に沈殿している。が、何かリアルな感じがするわけではない。幼き日のノスタルジャである。いつまでもつきまとうあこがれの世界である
それに比べて演歌は大人の歌である。そのテーマは愛して、恋してという基本的欲求にそったものであるが、これは時によれば、実感を思い起こさせるだけに、リアル感がある。そして演歌にはまってしまうと、歌と言うより現実を追い求めるような気持ちになる。詞と曲の力なのだろう。よる酒などが入れば、酔いが回るせいか身につまされるような切ない気分になる。
しばらくは夢の世界か、幻の世界か、訳が分からないが、さまようことになる。この世の憂さを忘れて明日の活力を、あるいは英気を養うならば、演歌は生きるためのある種のビタミン剤であろう。
往年の歌声喫茶の復活はあるのだろうか。恐らく復活はしまい。というのはその頃に青春を謳歌していた人達は、ぼつぼつこの世を去る年齢に達しているから。


体罰

2011年10月26日 | Weblog
体罰

体罰は学校教育の現場では、国の法律によって禁止されている。
近頃教師が生徒に体罰を加え、けがを負わせる事がよく新聞に載る。
体罰に至った経過など細かくは出ないで、生徒が殴られて、、、、と言う部分だけが報道されているので、その当否は分からない。が、体罰はいかなる場合でも禁止されているから、やはり教師が悪いということになってしまう。
現実の場面、たとえば親はしつけのために、つねったり、たたいたりすることが今日でも、しばしばあるのではないか。
安全パイは何事が起きようとも、体罰をしないことだが、それで果たして教育指導という責任がもてるのだろうか。
やむを得ず体罰を加えることもありだと僕は思う。
その時は校長の面前で、主任や同じ学年の先生達と連携の上、尻をたたく事だ。顔や頭を殴ることはとんでもない。それは指導の範囲を超えて暴力になるから、やめるべきだ。
柔道の出来る先生がいたら、道場でけがをしないように技を掛けて、投げて貰うのも、1つの方法だ。学生時代は誰でも親から、たたかれたり、つねられたりした経験があるのでは無かろうか。それもこの年になると懐かしい。

現場の声としては、要は口での指導には、限界がある。滅多にないことだが、悪いことをすれば道場で技を掛けられて痛い目に遭うと言う指導と、経験は必要だと思う。
生徒にとって学校に怖いものがいなくては教育は成り立たない。悪いことをすれば
痛い目に遭う。これは卒業しても生徒の記憶に残ると思う。そこにこそ教育が成り立っていると思うからだ