格差
大阪維新の会が提案する教育条例で、提案した維新の会のある市議は、教育上の格差は認めるとした。
今までそう思っていた人達も、世間を吹く世論の風は格差是正というものであるから口に出せなかったのではないか。
格差にもいろいろあって、たとえば、いまアメリカで言われている経済格差は当然是正されるべきだろう。しかし一方ではある程度の格差はあって当然だとも思う。格差というとすぐ格差是正を連想するのではなくて、格差の中身を十分吟味した方がいい。
教育上の格差でいうと、東京都がかって公立高校を学校間格差是正しようとして、高校の序列をばらばらにした。つまり勉強好きで出来る子も、勉強嫌いで勉強はさっぱりという子も同じクラスで授業をするという極端なことをして、格差是正をしたつもりだった。
例を挙げるとあの名門校日比谷高校を秀才校ではなくて、その他の一般校にしたものだ。
その結果どうなったか。名門校日比谷高校は東大合格者が激減した。秀才は私立高校に流れたのと、その受験のための塾を増やしただけだった。学校間格差是正の名のもとにとられたこの施策は愚策だったと言うことが分かった。今になって昔の序列に戻すこ方がよいということで、6年間一貫教育にしようとする動きもある。
あまりにも有名私立校に偏りすぎるので、東大では特定の私立高校からの入学者数を限定しようという意見が出たくらいである。
これは社会の自然な姿で、つまり人間の現実は、知能優秀児から遅滞児まで知能は分布して、それは正規分布であるというのが 現実の姿なのである。そして世間の要求で優秀児が集まる学校が出来て有名大学への進学率をアップさせているのである。言い換えればソーシアル・モービリテイ(社会的強制力とでもいおうか)の風が吹いているのである。
考えてみれば分かる。人間の知能分布は正規分布である。それを数だけ均一化してしたら、よく出来る子供から見れば、たいくつ な授業であり、苦手な子共にとってみれば難しすぎて退屈な授業である。これは善し悪しの問題以前である。教育によって知能指数を簡単に引き上げたり、引き下げたりは出来ないのである。
現実論からすると、秀才は秀才なりにそのレベルの教育を、また苦手な子はそれなりに楽しく学べるようにしようと思うと、授業だけは進度別とか、習熟度別にしないと現実論になってこない。そこがポイントだと僕は思う。だから知事の言う高校教育の望ましいあり方の教育論と僕の意見はこの点では一致する。昔のナンバースクールの復活は単なる
ノスタルジャではなくて、教育に携わってみてそう思う。能力別の学校ができて、そこに格差が生じることは、当然のことで、それは自然の原理として認めなければならない事柄である。
大阪維新の会が提案する教育条例で、提案した維新の会のある市議は、教育上の格差は認めるとした。
今までそう思っていた人達も、世間を吹く世論の風は格差是正というものであるから口に出せなかったのではないか。
格差にもいろいろあって、たとえば、いまアメリカで言われている経済格差は当然是正されるべきだろう。しかし一方ではある程度の格差はあって当然だとも思う。格差というとすぐ格差是正を連想するのではなくて、格差の中身を十分吟味した方がいい。
教育上の格差でいうと、東京都がかって公立高校を学校間格差是正しようとして、高校の序列をばらばらにした。つまり勉強好きで出来る子も、勉強嫌いで勉強はさっぱりという子も同じクラスで授業をするという極端なことをして、格差是正をしたつもりだった。
例を挙げるとあの名門校日比谷高校を秀才校ではなくて、その他の一般校にしたものだ。
その結果どうなったか。名門校日比谷高校は東大合格者が激減した。秀才は私立高校に流れたのと、その受験のための塾を増やしただけだった。学校間格差是正の名のもとにとられたこの施策は愚策だったと言うことが分かった。今になって昔の序列に戻すこ方がよいということで、6年間一貫教育にしようとする動きもある。
あまりにも有名私立校に偏りすぎるので、東大では特定の私立高校からの入学者数を限定しようという意見が出たくらいである。
これは社会の自然な姿で、つまり人間の現実は、知能優秀児から遅滞児まで知能は分布して、それは正規分布であるというのが 現実の姿なのである。そして世間の要求で優秀児が集まる学校が出来て有名大学への進学率をアップさせているのである。言い換えればソーシアル・モービリテイ(社会的強制力とでもいおうか)の風が吹いているのである。
考えてみれば分かる。人間の知能分布は正規分布である。それを数だけ均一化してしたら、よく出来る子供から見れば、たいくつ な授業であり、苦手な子共にとってみれば難しすぎて退屈な授業である。これは善し悪しの問題以前である。教育によって知能指数を簡単に引き上げたり、引き下げたりは出来ないのである。
現実論からすると、秀才は秀才なりにそのレベルの教育を、また苦手な子はそれなりに楽しく学べるようにしようと思うと、授業だけは進度別とか、習熟度別にしないと現実論になってこない。そこがポイントだと僕は思う。だから知事の言う高校教育の望ましいあり方の教育論と僕の意見はこの点では一致する。昔のナンバースクールの復活は単なる
ノスタルジャではなくて、教育に携わってみてそう思う。能力別の学校ができて、そこに格差が生じることは、当然のことで、それは自然の原理として認めなければならない事柄である。