日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

脚下照顧7-24

2011年10月20日 | Weblog




脚下照顧

さる寺の門をくぐったら、半紙に「脚下照顧」と、黒々とした墨書で扉に張ってあるのに気がついた。
たまにこのフレーズを思い起こして、我が身を振り返ってみるのはよい。が、毎日毎日足下を振り返りながら、、、、なんてことをしていたら、人間が身動きもとれず萎縮してしまう。
ちょうど百足が自分の足の動きを確かめながら、歩くようなものだ。100本の足の1から100までの動きを、意識しては歩けまい。百足は恐らくたちまちにして歩みを止めてひっくり返ることだろう
 
実際に歩く際に、つま先をながめると、砂利道の歩道の砂利は飛ぶように早く動いて、見つめていると目が回る。頭を上げて行く先の前方を眺めると、辺りの景色は固定したままである。素早く動くと言うことはない。そういう現実からすると、足下を見つめるのは大切ではあるが、足下ばかり見つめていると、つまり「脚下照顧」ばかりでは現実にそぐわない。
脚下照顧はいったい誰のためにあるのかというと、浮ついてすこしも自分の足下を見つめようとしない人に、「たまには足下も見ろよ」と進言しているのである。
その程度に解釈しておかないと、身が持たない。足下を見つめ直せなどというフレーズは、「一瞬立ち止まれ。お前のしていることは完璧か」と言うニュアンスがあるように聞こえる。
完璧な人間なんて誰もいないわけで、したがってこのフレーズは人の気勢を制する言葉に聞こえる。
相手の隙を突こうとする場合には使える言葉だが、あまり好きではない。というのは人は完璧なことを積み上げて毎日生活しているわけではないから。「お前完璧か」といわれると、誰だって虚を突かれた感じがするものだ。「よけいなおせわだ」とは思ったが、ここはお寺である。お寺は説教所でもある。
僕は顔でふーんと言うそぶりを見せたが、腹の中では「馬鹿な」とつぶやいた。