日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

何を考えているのだろうか

2011年10月15日 | Weblog
何を考えているのだろうか

今日、九電がやらせに関する報告書を経産省に提出した。趣旨はこの問題を第三者委員会を自ら設置して、その調査を踏まえて結論を出し、提出するのだろうと誰もが思ったが、九電は独自の報告書を出すことにした。
要するに第一原因を作った古川知事をかばったつもりだろうが、結果は逆効果だった。海江田前大臣に言われて責任をとってやめると言った前言を翻し、会長共々居残りも決めた。
何を考えているのか知らないが、世間の常識に太々しく挑戦して国民感情を逆撫でした。この問題で彼らは幕引きをしたかったのだろうが、世論を敵に回し、政府をなめた行動をとった。素直に謝ればいいものを、国民の反感を買うことをして、再開の住民同意はより遠のいた。得られなくなった。
みずから再開条件のハードルを上げてしまうと言う愚を演じてしまった。

枝野経産大臣はこの企業のガバナンスは一体どうなっているんだと激怒した。その通り。その怒りが世論の風なのだ。会社でどんなに威張っている輩が知らないが、大臣から叱られ、マスコミからたたかれ、良いこと無しだ。

こんなこと大人だったら初めから予測が付いたはず。そんな程度のばかが一流会社の社長に居座って、恥をとさらし、その上に居丈高にものを言う。枝野大臣でなくても、反感が巻き起こるのは当然だ。
住民の安全を置き去りにして、我が社の事情ばかりにしか目が届かないなんて実に了見の狭い話で、世間の風が読めていない。知事をかばったつもりだろうが現実には知事の汚名をもう一度天下にさらす結果になった。
この男や九電という会社は、一体何を考えているのだろうか。

二人乗り駄目7-25

2011年10月14日 | Weblog
二人乗り駄目

姫路市の沖に浮かぶ小島で、バイクの二人乗り取り締まりに揺れている。
島は 人口3000人ほどで,急な斜面や坂が多く交通手段の50っcバイクは欠かせない。
お年寄りの歩けない人は、背負われて通院していた。今は50CCのバイクの後ろに乗って通院してる。
ところが隣の島で少年が無免許で事故を起こし死亡した。このため警察は取り締まりを強化することになった。
その結果通院して患者は、往診を頼むようになった。と言っても一人しかいない医師の往診には限度がある。おそらく限度を超えては診察も出来ないだろうから、患者に通院を要請することになる。島の生活に不便きわまりないことが起こる。
副署長は皆がけがをして貰いたくないと言うことらしいが、考えるべきは現場の状況を踏まえて、法律を弾力的に運用するか、それが出来なければ50CCのバイクは何故二人乗りが出来ないのか。再考してみる必要がある。
50CCで問題なく二人が出来ると言う現実からすると、それを何故90CCにしなくてはならないのか。
決まりごとはすべてお上が作る。その際に住民の状況を十分踏まえて等という考えはない。おそらく学者か誰かが机上の計算でもって考え出された数値だろう。50CCではいけなくて60,70CCならよいというのは、どうも腑に落ちない。
ただしメーカーは法律に合うものを作るから、どうしても50CCが基準になるのだろう。
今日の新聞を読みながら、これが自分の事として考えた場合、少子高齢化の現在不便きわまりないことで、何とかしないと住民の健康も守れないというのは、それ自体が、異常事態である。一旦決めたら金科玉条にそれを守るというのも良いけど、人間が生活していく上での利便性を大きく削ぐというのは、それ自体が問題である。

放射能200km退避は正しい

2011年10月13日 | Weblog
放射能200km退避は正しい

政府や原子力安全委員会が福島原子力事故が起こったときに、20kmや30kmの同心円の中は危険だが、それをそれると安全圈内に入るとしたが、どうもこれは嘘らしい。
ここ2,3日、船橋で、横浜で、軽井沢で規定以上の放射線や物質の検出が行われている。
事故が突発したとき、アメリカは200km圈から外に避難するように勧告した。
当時僕は政府がまさか嘘をつくことはあるまいと思っていたから、アメリカさん大仰な。と思っていた。ところが連日福島県以外で放射線の存在が報道されると疑心暗鬼になった。
そしてやっぱりアメリカさんの警戒の方が正しかったのではないか。つまり200km圏内は汚染の可能性があり危険なのではないか、真剣におもう様になった。
2,30km圏外が汚染されいないことを願うばかり。
それにしても、福島事故は計り知れない被害をもたらした。人の苦しみや絶望は金に換えることは出来ない。さらに世代を超えて被害が及ぶと言うことにでもなれば、文字通りコントロール出来ない怪物を作っていたことになる。もはや取り返しがつかない。
これは一体誰が責任をとるというのか。とれるというのか。
当事者の東電はもちろんのこと原子力に携わった保安院安全委員会。この始末をどう付けてくれるのだ。

教師という仕事

2011年10月12日 | Weblog
教師という仕事

高校は校務分掌の中身を4つに分けていた。
1,生活(生徒指導)指導  
校則を守らせ、学校内外の生活指導をする係
2,教務
時間割を作ったり、年間の行事予定表を作ったりする係
3,庶務
学校の運営に関する雑務一般の 係
4,補修学習をする係

この4つのうち、一番敬遠されたのは生活指導係、略して生指 である。
15歳から18歳という年頃は一番ややこしい年代である。
第二反抗期で、この辺で人生を狂わせると生涯取り返しの付かないことになる年代でもある。少年から目覚めて脱皮し、大人の仲間入りをする年代だが、彼らには大人の世界を受け入れられない未熟さがある。社会でもまれていないから当たり前だ。経験不足からくる未熟さを、暴力に訴えてでもカバーする面があるし、何よりも純粋で、すれていないことからくる大人社会への反感、反発など、理由なき反抗が多くある。
その反抗を生徒達は学校で吐こうとする。大人から見ると、それはほぼ受け入れないことばかりであり、そこには生徒と教師の間で摩擦が起こる。ところがいわゆるわるガキにとっては学校というとある種の解放区にもなっている。

ただしここでは有名進学校の生指となれば話は別である。勉強に興味を示し、頭の中では有名大学へはいるためという希望の星が目の前にちらつくので、校則違反をおこして、説教をくらい、反省文を書かされることはマイナスでしかない。未熟者でもその程度のことは理解できている。

問題は勉強嫌いで、せめて高校ぐらいはと言う世間の波にのまれて渋々高校にやってくる生徒達である。
元々勉強は嫌いで、したがって成績の悪い生徒の集団を相手に、生徒指導をする係の中身はどんなものか。自分の授業を通して、どれほど大変かが分かっているから、よほど自分に自信があるか、学習成績の向上よりは人格形成に自負と信念を持っている教師しか、生徒指導係を希望しない。それでも僕は教師生活の大半は、生活指導を受け持ってきた。それは彼らの面倒を見て人間教育をしたかったわけでなく、希望者が少なく、なり手がなかったから穴埋めをしただけである。現代は僕らが教育を受けた時代とは様代わりして、偉いのは生徒のほうである
「おいこら。先公。なんでたばこを吸ったら悪いんじゃ。俺の金で買ったものを俺が
すうのはどこが悪いんじゃ。どこに迷惑をかけていると言うんじゃ」
「たばこは高校生には身体的に害があるから、国も学校も禁止している。違反すれば校則によって、反省文を書いてもらうことになる。」
「お前ら大人がかってにきめて。それを押しつけたらいいと、思っているかもしれないがそうはいかん。俺たちの言い分だってあるんだ。」
「君がそう思うのが勝手だが、いけないものを、いいと言って許可することは出来ない。生徒である以上は、校則を守ってもらわないと、学校が成り立たない。」こういう問答は
バイクについて、盛り場をうろついたり、酒を飲んだりすることについて、指導という名のつくものはどこまで行っても平行線である。

そこで思うのだが、勉強のいやなもは、また勉強に不向きなもの達は、社会に出て実学でもって人間形成をはかる方がどれだけ手っ取り早いか、と言うことである。
教師と言っても特段、人格が優れている訳ではない。もうはやらなくなったが「でも、しか」先生が大勢いる。そしてこれらは、先生という言葉は外から見た教師像として、的外れではない。
「ほかではつとまらないから、教師にでもなろうか。」とか「世間一般の常識が受け入れなくて教師しか務まらない」というのは教師集団のある一面をついている。
にもかかわらず、世間は先生というイメージに対して、尊敬と軽蔑という相反する
ものを抱いて、教師を見ている。
「あの先生は立派だ。先生を見習って立派な人間になりなさい」とか、
「ほら。あの先生にはかなわんよ」とか言って評価しているのは、今も昔も代わらない。
僕もデモシカ先生のくちだから、大きな口はたたけないが、考えようによっては、教師は希望の持てる職業だと思う。



白熱教室 東北震災について

2011年10月11日 | Weblog
白熱教室 東北震災について

ハーバード大学のサンデル教授の対話式講義は、今まで体験をしたことがないだけに、いつもテレビにかじりついてみている。
今日は図書館で教授の「大震災特別講義、「私たちはどう生きるのか」を借りてきて読んだ。今回のこの大震災に日本人はどう立ち向かったか、という問題に対して、お世辞ではなく、僕は日本人の心がここに示されて、それが世界中から賞賛の的になったのではないか、そしてそれこそは全人類が目指す方向であると僕は自国のことを賞賛のまなざしで見た。
1、秩序だった行動
2、コミュニテイへの忠誠心の強さ、家庭、地域、国へと広がる献身的な行動や考え方。
3、深い悲しみの中の混乱の中でも冷静に振舞う。略奪や便乗値上げは起こらなかった。
4、困難の中での礼節と秩序を失わない。
5、これは東北に限らず日本全体の姿のようである。
6、私たちは生きている。生かされているからもっと悲惨な人を助けてほしいとの発言。
7、原子力事故では自分の命を捨ててまで責任を果たそうとした人がいたこと。

拾い書きだが、以上のようなことが、本音であるにせよ、建前であるにせよ、日本人がこれらを実行したことは紛れもない事実である。これらは人間としてあるべき姿だと思う。そしてそれは世界人類の共通の感覚であり、願いでもある。だから共感を呼び世界中の人々に大きな感銘を与えたのではなかろうか。僕は日本は捨てたものじゃないと思う以上に、この日本に生まれてきたことを誇りに思う。
腹のそこから叫ぶ。日本万歳。バンザーイ。









現代のストーカー清姫募集中7-26

2011年10月10日 | Weblog
現代のストーカー清姫募集中 9,996

紀州路線走ると、御坊の次が道場寺である。ここには、安珍・清姫物語伝説が、ある。
恋にくるう女が男を追いかける。思いついたら、彼が隠れている釣鐘を恋の炎で、焼き尽くす。
何もかにも忘れて、命をかけた恋の情熱は一体どこから出てくるのであろうか。
この物語は、一体何を語ろうとしているのか、

1,女の恋の情念の激しさ
2,なぜそこまでエネルギーを集中して、釣鐘を焼き尽くすのか。
、女の内なる世界は、閉鎖的だから、一点集中したエネルギーはすべてを焼き尽くすほどのパワーを持っている。命を懸けた女の情念の集中力は恐ろしい。
男女にかかわらず、恋という情念のもつエネルギーの大きさ。そこには、男と女という差は無いと思うが、一点集中となると女の情念の方が、大きいのかもしれない。

命をかけてでもという望みが、押しつぶされて、解放されないこの情念の塊は、現世で、どういう形をとれば、良いのであろうか。それはきっと幽霊になる。
清姫は、死んでから、蛇になるのではなくて、生きて、情念の炎で安珍が隠れたとする釣鐘を焼き尽くす。

現代のギャル達に、この問題を尋ねたら、彼女達は何と答えるであろうか。
安珍代わりはいくらでもいるよ。 さっさと、乗り換え、するのだよね。それが、かなわないのなら、生涯独身で過ごす。
結婚しても、離婚率が高くなる現代だったら、結婚していてもいなくても大差は無い。(本当は大差がある。)
離婚したと思えば、独身でいても、なんらさしつかえない。

歴史上の女の執念。それは 清姫  おいわ  お菊さん等の物語となって、延々と語り継がれている。
しかしそんなに恋い焦がれられるとは、何という果報者だろう。1度でもよいから
ストーカーされてみたい。
どこかにいないか?清姫型、女のストーカー。ただし年齢制限は40才まで。現在募集中。はっはっはー。

十月8,9,10日の連休

2011年10月09日 | Weblog
十月8,9,10日の連休

関西地方は秋の秋晴れのさわやかな一日。あちこちで運動会の声が聞こえる。こんな日和は家に閉じこもっていては勿体ないと、外に出た。
お目当ては堺ASEANウイークのイベントである。ASEAN5カ国。ベトナム、カンボジャ、タイ、インドネシア、フイリピンの国々が参加して、各国の領事出席の下に、歌や踊りが披露された。日本からは獅子舞と和太鼓が出演した。
まず体型や顔つきであるがアジア人はよく似ている。ヨーロッパ人からみると、この人達がおそらくどこの国の出身かほとんど見分けが付かないだろう。それは日本人から見ても、フランス人とイタリア人の見分けが付かないように。
ASEANで共通しているのは、東洋人は西洋人に比べて泥臭い。その泥臭さの中に東洋独特の人情がある。西洋人とはいっぷちがった人情だ。それは都会に住む人達が、隣にすむ人に対してみせる澄ました顔によく似ている。我関せ
ずの個人主義が発達した国が多いせいだろう。日本では田舎に行くほどに、他人と我の境目が失われて人情が濃くなるのとは、正反対の事である。アジア人はお互いに野暮ったい感じがするが人情が厚い。それは 世界を旅で駆け巡って、東洋と西洋の違いを感じたからである。
タイの東北部(イサーン)の伝統的な古典舞踊を見たが、この舞踊は神へのお神楽ではないかと思った。独特の指先踊りで腕や指をくねらせる。日本人にはまねの出来ない踊りだと思った。日本人は身体で踊る。タイ人は身体の動きに指先のしなやかな踊りが付く。そして今日は南方系北方系の人々が入り交じって踊ったのが、印象的だった。北方系は中国に近くどこか日本人の顔かたちと一脈通じるような印象を受けた。南方系はインドネシア、やフイリッピン人に近いような印象だ。堺市では全国に先駆けて、市役所の中にASEAN課があるような話を聞いた。戦国時代と言うからもう4,500年も前の話だが、この堺港から先祖達はアンナン、シャムへと船出してこれらの国と交易をした。タイのアユタヤには日本人町があった。幕府の海外渡航禁止令が出るまでは、さかんに交易したらしい。
今日はそのアユタヤにある大学の日本語科の生徒がきて、交流の胸の内を話してくれた。おぼつかない日本語だけど、意は通じた。いつ帰るのかと聞くと明日だという。それじゃお土産にと僕が作詞作曲したタイ・バンコクにある有名な寺院・ワットアルンのことを書いた作品「WAT ARUN 」のCDを一枚と歌は英語で歌っているけど、これをタイ語に翻訳して歌詞カードを作ったのでそれも差し上げた。彼女は非常に喜び、ワイをしてお礼を言った。ぼくもあわてて合掌して「コップンクラー」と言った。 久しぶりに胸がわくわくした一日だった。今日は珍しく男性の老人が多かった。男はすることがないので、僕のように暇人が多いのだろう。

半音くらい

2011年10月08日 | Weblog
半音くらい

。名曲・荒城の月 に出てくるフレーズ「 フア フア ミ レ ミ 」のレが半音あがるか。上がらず元もままのレになるかが、大いに問題になる。半音くらいどうでもよい。そう思う人が大半だろう。僕にとってはこの半音はどうでもよくはない。
D#かDか。わずかな差であるが、これによってこの歌の品格や格調の高さが変わってくる。滝廉太郎はD#にした。これだとせっかく荘重な響きを持ってやってきたメロデイがこの半音上がるために、全体に浮いたような軽さが出てくる。それは歌詞の荘重さを軽く表す。

これを作ったとき、彼は20代の青年である。23歳で結核に倒れる青年に歌詞の荘重さを求めるのは、酷かもしれない。少なくとも彼の3倍以上の長さを生きてきた僕がそう思うとしても。名曲であることは間違いない。

翻ってD#の#をとりはらって、Dに編曲したのは山田耕筰氏である。先生いくつの時の編曲かしらないけれど、先生のあの格調高い好みに合わせたものだろう。
それは山田先生のプライド、即ち高踏的な、宗教的な品性によるものだと僕は思う。
山田先生のはきっと20代でこの編曲をしたとは思われない。恐らく30代後半か
40代になってからのことだろうとおもう 。人間の年は争えないものだ。年輪ただで刻んだものじゃない。こういうことが分かってくるには、ずっと勉強を続けて20年か30年かはかかるものだ。

近頃の歌は芸術性がほとんど見られない。格調の高い歌に触れることのない今の若者は
気の毒だと思う。今日本をぐるりと見渡して、20代で滝廉太郎ほどの格調とセンスを持った作曲家を一人も見いだせないことに、がっかりする。
どうすれば彼のような音楽芸術家が現れるのか。今の軽薄な世相をひっくり返して、いわゆる「まともな世」になる以外恐らく現れないだろう。

2011年10月07日 | Weblog


人は持って生まれた、器の大きさがそれぞれ違っている。
その大小は人によって決まっているが、その限度まで、力を出し切って生きるか、それとも、器より小さく生きるか。それは人によりけりだ。

寿命もそうだ。寿命の尽きるまで生きるのを天寿を全うするという。
天寿まで、よう生ききらないで、死ぬ人も多い。事故によって。病気によって。
人は持って生まれた、器の大きさがそれぞれ違っている。
その大小は人によって決まっているが、その限度まで、力を出し切って生きるか、それとも、器より小さく生きるか。それは人によりけりだ。

寿命もそうだ。寿命の尽きるまで生きるのを天寿を全うするという。
天寿まで、よう生ききらないで、死ぬ人も多い。事故によって。病気によって。

ウォール街占拠」運動、

2011年10月07日 | Weblog

ウォール街占拠」運動、

釈放の参加者再び集結 読売新聞 10月3日(月)23時44分配信
【ニューヨーク=吉形祐司】米ニューヨークで700人以上が逮捕された「ウォール街占拠」運動は、釈放された参加者が拠点のズコッティ公園に再結集し、2日もデモ集会を続けた。
抗議デモはボストンやシカゴ、ロサンゼルスなど全米に拡大しており、多くが企業の拝金主義や大企業優先の政治を批判している。
ウォール街に近い同公園でパンやリンゴ、ピザなどの無料配布を担当するジャネット・エイバーさん(24)は「すべて持ち寄り。毎日1000人以上は来る」と話す。エイバーさんは「私たちに責任のない経済危機はもうたくさん」と語った。
ギターやドラムを演奏したり、持ち込んだマットの上でごろ寝したりする若者もいて、公園は「居住空間」と化している。1日に逮捕されたフィル・エドワーズさん(44)は「大多数の声を代弁したいだけだ」と公園に舞い戻った。

アメリカはいま失業率が9%台で一向に改善はしないようである。若者の就職難は金融街にむかって抗議する形になった。最初は学生などの若者だけだったが、これに労働組合中小企業経営者も加わった。

資本主義はいいけれど、とてつもない格差を生むようなあり方は是正されるべきだ。若者の言うとおりである。1人の年収が若者を何10人も雇えるほど多いというのは、ひずみである。そのことはリーマンショックで経験して、金融関係者に自制を求めたのとではなかったか。

人間の貪欲は天井知らずである。金は誰でもほしい。しかしひとりじめして己が社会の一員であることを忘れたら、それは社会的な過ちを犯すことだ。資本主義活動の中では自由が尊重されるのは当たり前だが、だからといって社会的な反感を買い、デモまで行われるようになると、やはりどこかに行きすぎがある。この行き過ぎの部分の是正が個人の判断に任されるならば、今後デモは絶えないだろう。
日本においてもそうだ。一億円の年収をとっている人と200万円労働者とは余りにも格差があり過ぎる。これは是正されるべき事柄である。この辺の調整は個人の良心に任せるのではなくて、国家がその調整役を果たさなくてはならない 。所得格差が歴然としてくると、デモが起きる。それだけではなくて暴動に発展する可能性があり、さらに体制変革を求めるところまで行き着くかも知れない。そうなると資本主義や民主主義が大きくゆがめられてしまう。
為政者は考えなくてはならない 問題である。アメリカ、特に共和党の考え方には違和感を覚える。そして僕は若者の行動を支持する。

中国の鉄道事故

2011年10月06日 | Weblog
中国の鉄道事故 : 11/10/04

車両を作るのに、製造技術がいる。その車両をできるだけ速度を上げて、正確な定時の運行によって、列車運行が可能になる。
つまり、ハードと同時に、そのハードを安全に使いこなすソフトが必要である。
ハードは目に見えるから、とり扱い易いが、ソフトは頭脳だから、ここにはさまざまな工夫や経験から得たものが、蓄積されてできあがっている。

中国の事故を見ると、どうも列車運行を安全に使いこなすソフト面に問題があるようだ。幾多の事故を経験して積み重ねられた経験率ソフトはそう簡単に、取得できるものではない。

中国が新幹線を独自開発したとして、特許申請をしているが、新幹線というスピード列車で、衝突事故を起こしては話にならない。
時速380kmのスピードで運転している、運転手は、どんな気持ちで、レバー操作をしているのだろうか。
いつ我が身に災難が降りかかってくるが、びくびくしているのではないか。
はたまた、日本人に比べて神経の図太さでカバーしているのだろうか。

日本やヨーロッパから導入しておきながら、その技術よりも上の技術を持っているかのように振る舞うのはお笑いである。今度の列車事故はそのことをはっきりと証明した。

古本 

2011年10月05日 | Weblog
古本  : 11/10/04

今でも、忘れられないことがある。
なけなしの金をはたいて、神田の古本屋で本を買った。
財布の中のお金が足りなかったので、その分、ねぎった。その本を本屋に忘れたまま学寮に帰った。自分の部屋に入ってから忘れた事に気がついた。
しかし、神田まで引き返す勇気がなかった。もう50年も、昔のことだが、ある日突然思い出した。

今日は、本を売りに行った。身の回りの整理を始めると、まず本を処分しなくては、と思う。大部分は僕にとっては大事な本であるが、場所をとって邪魔になる。
僕は読むと、大切だと思うところに赤線を入れる。書き込みはしないが、読みおわった日付は記入する。

古本屋のおにいちゃんは、50冊ほどをパラパラとめくり「捨てておきましょうか」という。
書き込みや、赤線を引いた本は古本として、値打ちがゼロらしい。僕は一瞬とまどった。
「じゃあ持って帰る。」と言って、重たい本の束を自転車に乗せて持って帰った。

一度読んだ本だから、売れないから、それでもいいのだが、いくら身辺整理と生きても本を捨てるには、勇気が要る。
捨てるにはもったいない。そう思って、再読したが、赤線を引いたところ以外も、新しく、赤線を入れたいところが随所にあった。

本は変わらない。僕が変わったのだ。時間、という風雪にさらされて、生きていると、若い時に読んだ大切なフレーズだけでなく、今でも赤線を入れるところが出てきた。やはり本は、何回も繰り返して読む必要がある。
だから、これらの本を売ったり、処分したりしなくてよかった。と思った。

著者が一生懸命になって書いた本には魂が宿っている。その魂と向き合うのが読書というものだ。

話は飛ぶが、今は本を買う前に図書館で借りて、読む。そして、各値打ちのあるものかどうかを見極めたうえで、買うか買わないかを決めている。

























上に立つ人

2011年10月04日 | Weblog
上に立つ人

根もとを尋ねれば、佐賀県知事の発言に行き着くと、九電ヤラセ問題について
第三者委員会が結論を出した。

滋賀県知事は福井原発の事故が起これば琵琶湖まで放射能汚染される可能性があり、卒原発を提唱した。これは住民の安全を第一にしているから生まれた考えである。

どんな理屈を付けても、知事の使命は県下の住民の安全を守ることが最重要課題の筈。そう考えると、知事には選挙民にたいして、その使命を果たさなくてはならない義務がある。
ところが、佐賀県知事は裏で電力会社が原発関係の運営をやりやすいように、社員を使ってやらせをさせた。
政治献金や選挙の時お世話になった九電に配慮したい気持ちは分かるが、本音の段階では、住民の安全を守るために、命を懸けても良いと言うくらいの気概を持ってほしい。
ヤラセの原因を作ったとまで指摘された、古川知事は今、何を考えているだろう。先日テレビでは第三者委員会が指摘したような事実はないと苦しい言い訳をしていたが。 次回はの選挙ではおそらく落選するだろう。住民の願いを裏切ったのだから、当然のことである。

3,不邪淫 

2011年10月03日 | Weblog

3,不邪淫 

奧の深いこの問題で、どの程度までのことを邪淫というのか、分からないが、僕の意識の中では不邪淫によって子供の命を奪うことは、やはり許されないような気がする。そりゃ人間のすることだ。完璧を期することは無理だろうが、こと命のことだけは、ゆるせない。と言うより神への冒涜になると思う。

この世はまず第一に金だ.これは我が身を養うに不可欠なものだ。
それが満たされれば次は異性を求め合うことだ。
この二つは人間の本能で、金儲けも恋愛も避けては通れない。
ところがこの二つは正道によって行われるかというとそうではない。その時の気まぐれで、どんなに道を外すことが多いことか。だから不邪淫と言う枠をはめたのであろうが、言葉の定義付けもあろうが、どれほど守られているだろうか。
誰でも金は沢山ほしいし、金持ちのイケメンを女が狙い、華やかな世界に登場する美女に、男が群がるのも自然の理である。 どちらにも今まで無縁であった僕は、うらやましく思いながらも、自分なりに不邪淫を守ってきた。いや守ってきたと言うよりは自然にそうなったまでの話である。

 おーお。お堅いことで。そうです。表面は繕っているのです。これを読んでるお宅はよく分かってる。?? いやー。不邪淫なんてなん%の男が守っているのだろうか。と言うことは女も同罪である。女犯があると同様に、男犯があるのと違うのか。この辺のことはよくわからない。
現今は女性進出がめざましく、この面にかけては男同様の振る舞いが目立つ。やはり神様のみがご存じじゃ。


体育祭

2011年10月02日 | Weblog
体育祭

今日から十月。本格的な秋が始まる。あの暑かった夏がどこかえ引っ込み、秋が張り出してきた。気温は急激に下がり、今日などは風が吹くと長袖シャツを着ているにもかかわらず、肌寒く感じた。
こういうときに運動会をすれば熱中症で倒れる子供はいないだろう。
朝から近所の学校の体育祭見物に出かけた。
僕らの時代は運動会といった。今は体育祭という。どちらでも良いのだが、運動会と言う言葉には、ノスタルジャがある。それが今は専ら体育祭。呼び名が代わり
時代が変われども、中味はほぼ同じ。小学校の体育祭にも、中高生の体育祭にも走りのリレーがある。ボールを使った競技、ラジオ体操など 白の短パンに白の半袖を着て参加した小学生時代の自分の姿が目に浮かぶ。

小学校の頃は運動会が楽しみで、前夜などワクワクしながら寝たものだ。
自分が走っている姿が目に浮かんで、寝付くまでには時間がかかった。眠りに落ちるその時までが、今から思えば、人生の華だった。

近頃は体力が弱って、とても100m走に参加する気になれない。専ら見物することと、運動場にシートを敷いて家族で、家から持参した、この日のためのごちそうに舌鼓を打つことだ。

十月、秋のはしり、たけなわ。いくつになっても童心に帰れる行事である。