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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第59段 大事を思ひ立たむ人 やりたいことに集中

2024-08-01 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第59段 大事を思ひ立たむ人 やりたいことに集中      
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第5 9段 大事を思ひ立たむ人 やりたいことに集中
 出家を思い立った人は、俗世から離れ、俗字を捨てなさいと主張しています。
 「大事」、すなわち出家することは、今も当時も変わらず、それほど容易なことではなかったことが、この段から読み取れ、それを体験している兼好であるから強くいえるのでしょう。
 死ぬときには、愛着を持った人や物などとの関係が絶たれるのが必定であるので、やりたい事を一旦決心したら、道を究めることは容易ではないですが、それに全力を注ぐべきであるといっているように思えます。
 徒然草の中では、最も兼好らしい、聡しの段の一つといえます。

【原文】
 大事を思ひ立たむ人は、さり難き心にかからむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。
 「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらむ、行末難なくしたためまうけて」、「年ごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。
 おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。
 身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし。
 命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。

【用語】
 大事: 出家をして仏堂に入り、修行を通して悟りを開く
 去りがたし: やめられない、捨てにくい
 さながら: すべて、そっくりと
 年頃: 何年も
 物騒がし: せっかち、性急な
 おほやう: おおかた、大体において
 あらまし: 予定、計画
 一期: 人の一生、人生
 無常: この世の中の一切のものは常に生滅流転 (しょうめつるてん) して、永遠不変のものはないということ。特に、人生のはかないこと(goo辞典)、ここでは「死」を意味する
 いとけなき子: あどけない子、幼子、幼い子供
【要旨】
59 現代語要旨 大事を思ひ立たむ人




 道を求めて悟りを開こうという一大事を決意している人は、放っておけず、心にかかる事があっても、希望を果たそういう方法で、それを解決しようとせず、そっくり捨ててしまうべきです。


 「いま少し待とう。これが終わってからにしよう」とか、「同じことなら、あれこれと片を付けてから」「これこれのことは、人に嘲笑されるかもしれない。将来非難されないように、ちゃんと整理してから」「長年こうして過ごすことができたのだから、そのことの結着を持ったとしても、それほどには時間はかからないだろう。そうせっかちになるほどの事ではなかろう」などと考えていたら、放置できないような、為さねばならないような用事ばかりが、次々と出てきて溜まってきたしまいます。


 しかも、為さねばならない用事が消えてなくなることもなく、ついには出家をし、仏道に励もうという一大事を決行する日も失われてしまうようです。


 世間の人々を観察しますと、大方の場合、多少はしっかりした面を持つ程度の人は皆、このようにして計画倒れになったまま、その一生を終えてしまうそうです。


 近所に火事があった時に、逃げる人は、火を前にして「ちょっと待ってよ。これでいいのだろうか」と言うでしょうか。まず、そう言う人はほとんどないでしょう。


 助かりたければ、恥も外聞もなく、財産さえ捨てて逃げるのが普通でしょう。


 いったい、寿命というものは、自分の都合を考えて来てくれるわけではありません。死が迫ってくる状況というのは、洪水や猛火が襲いかかるよりも速く、逃れることはできません。


 人生が、それほどまでに緊迫した状況に置かれているにもかかわらず、その時に、老いた親、幼い子、主君の恩、人の情けなど、「それは捨てがたいことだ」といって、捨てないでいられるかといいますと、捨てないでいられるはずはありません。




59 コメント 大事を思ひ立たむ人


 洪水の時に、初めのうちは「水が来ないかもしれない」と正常化バイアスが働くかも知れませんが、目の前まで迫ってくるときに、私達は、会社のことや困っている人達のことよりは、まず、自分の身の安全を考えてしまいます。


 しかし、道を究めようとする人は、人情や人のしがらみなどにこだわっていないで、それら、いっさいを捨てて、速やかに、出家という一大事を決行しなければ、状況の変化に流されて、その実現のタイミングを失してしまうだろうと、兼好は警告を発しています。


 これは、仏道に入るだけではなく、私達の人生においても、「いまでしょう」と考えられることが多いです。




 景気の悪いときには、就職を決めることが厳しいです。学校・大学側の就職指導の担当者は、自分のやりたいことができる会社を選びなさいとアドバイスをするでしょう。その結果、「自分のやりたい仕事に就きたい」という学生さんが多いようです。


 「やりたいこと」というのはすぐにも見つかるような印象がありますが、一生をかけたいことというのは、表面的なものを見ただけでは見つかりません。学生生活を通して見た社会というのは、氷山の一角でしかありません。


 いろいろな経験の中から、自分がやりたいこと、自分に適していることを見つけ出すことができるのではないでしょうか。


 まず、目の前にある、やりたいことを見出したら、それに全力を尽くして集中してみてはいかがでしょうか。いつのまにか、それが自分のやりたいことになってくることもあります。そうでないこともあるでしょう。


 その上で、自分で決断し、右に行くか、左に行くかを決めれば良いではないでしょうか。私は、このやり方は、兼好の言っていることと矛盾するようですが、兼好が本当に言いたいことは、このようなことではないかと思います。
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■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第52段 仁和寺にある法師

2024-07-25 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第52段 仁和寺にある法師    

  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。

◆第52段 仁和寺にある法師 
 仁和寺は、京都市右京区にあります真言宗の古刹(こさつ:由緒ある古い寺)です。
 私の好きなお寺さんのひとつで、何度も訪れています。御所を移転した「御室御所」は、庭園もさることながら、その建物や内装には、魅入られます。御室桜が有名ですが、御衣黄という薄緑色のサクラの花びらの発祥の地としても知られています。
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto-ninnaji.htm
 兼好は、仁和寺(にんなじ)の近くに住んでいた期間が長いようで、徒然草の中にも時々登場します。
 第52段にも登場しますが、高校の教科書の多くに掲載されている、人気の高い段です。ここでの教えも、私は、経営コンサルタントという仕事柄、講演や執筆におきまして、挿入話としてしばしば採用します。
【原文】 仁和寺にある法師
 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心憂くおぼえて、 あるとき思ひ立ちて、ただ一人徒歩よりまうでけり。
 極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て、帰りにけり。
 さて、かたへの人に会ひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。
 そも、参りたる人ごとに、山へ登りしは、何事かありけむ。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。
【用語】
  かたへの人: そばの人 → 同僚
  ゆかし: 見たい、知りたい
  先達: 案内をしてくれる人、指導者
【要旨】
 仁和寺のある僧が、かねてより行ってみたいと望んでいました石清水八幡を一人で参詣しました。
 ところが、附属の極楽寺・高良神社を本殿と思い込み、拝んでから帰宅しました。このような貴重な機会を持つことができたとありがたく思って、同僚に話していたそうです。
 兼好は、早合点や思い込みに対する警鐘を発してくれているのです。
【 コメント 】
 仁和寺という格式あるお寺の僧侶ですから、きっと賢い方なのでしょう。老齢になるまで持ち続けていた念願でありました石清水八幡の参詣がようやく叶いました。当時のことですので、当然、「徒(かち)」で行くのですが、同じ京都市内にあるのですから、行こうと思えばいつでも行かれます。
 念願は長年持ち続けてはいたものの、決心がつかずにいつづけることは誰しもにあることです。
 私など、東京に3四半世紀も居住していながら、日本経営士協会関西支部の支部長が上京するまで、東京タワーに登ったことがありませんでした。しかも、その1回だけです。東京スカイツリーときましたら、まだ、一度も昇っていません。おそらく終生、昇る機会は訪れないでしょう。<笑い>
 仁和寺という古刹の高僧ですら、そうですので、凡人の私などと比較してはバチが当たってしまいますね。
 誰かが背中を押してくれたり、何かが契機となって一大決心したりしない限り、中々実現しないことというのはありますね。

 思い込みや早とちりというのは、これも誰しもが経験することです。
 仁和寺の、この僧は、極楽寺・高良神社を拝みましたが、自分では、石清水八幡宮の全てを参拝したと思いこんで、本来の目的であります、山上にある八幡宮本殿を拝まないで帰ってしまったのです。
 他の人達が、山の方に昇っていくのを見てもまだ、自分は、目的を全て果たしたと思ったのです。思い込みが、「正常化バイアス」を働かせてしまうのですね。
 同僚に「長年の念願でありました石清水八幡の参拝を果たしました。八幡宮は、噂以上に荘厳でした。それにしても、参詣者の皆さんが、山の方へ登って行きましたが、何かそちらにあったのでしょうかネ。でも、私は、八幡宮の参拝が目的でしたし、それを果たせましたので、山には登りませんでした」と、本殿を参拝するという本来の目的を達成していないのに、まじめな顔をして話したといいます。
 なにごとでありましても、軽く見ずに、兼好が言うように「案内者がいるほうが、大失敗を避けることに繋がる」ものなのでしょう。
 私達、経営コンサルタントの立場でも、多くの経営者は、「経営コンサルタントなどいなくても、これまでもやってこられたので、これからもやって行けるはずだ」と、私達におっしゃったり、自分自身を納得させていたりするのです。

 このように、私達は「○○のつもり」ということが多々あります。これを私は「つもり症候群」といい、研修等で、しばしばお話をします。この第52段は、その時の引用として紹介します。
* 

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  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/eb88c477696adc4e2e78376c81b7274b

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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて ◆第51段 亀山殿の御池に  

2024-07-18 09:22:14 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて ◆第51段 亀山殿の御池に   
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
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◆第51段 亀山殿の御池に
【原文】
 亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を造らせられけり。
多くの銭を賜ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、おほかた廻らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。
 さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るること、めでたかりけり。
 よろづにその道を知れる者は、やんごとなきものなり。
【用語】
 亀山殿: 京都嵯峨野にありました後嵯峨上皇が造営した離宮、現天龍寺付近
 まかす: 水を引く
 土民: 住人、土着の農民
 銭(あし): お金、江戸時代には「小銭」を指しました。
 おおかた+否定語: 全く、全然
 参らす: 差し上げる、与えるの謙譲語
 道: 専門の道、専門分野
【要旨】 亀山殿御池に
 亀山殿の御池に水を引くために水車をつくらせることになりました。大堰川付近の農民は、作りましたものの、水車が回りませんでした。
 宇治川付近は、昔から水車を利用していたこともあり、「宇治の里人は、水車づくりの名人」が揃っていました。彼等に水車をつくらせたところ、いとも簡単に作りあげました。
 何ごとにおいても、その道に通じる者の存在は尊いことであると兼好は言っています。
【 コメント 】 亀山殿御池に
 亀山殿は、京都嵯峨野にありました後嵯峨上皇が造営した離宮です。現天龍寺は、その跡地の一部です。天龍寺そのものも、池のある立派な庭園を持っていますので、おそらく贅を尽くされた御殿だったのでしょう。
 その離宮の池に、水を引くに当たり、たくさんの金銭を用意したことは当然でしょう。大井川(今日の「大堰川」)の水を使うことが決定されました。何ごとにも、目的が決定すれば、手段を講じなければなりません。
 大井川の水を引くのですから、当然のことのように、大井川付近の住民に、その作業の命がくだされました。ところが、水車を数日かけて作りましたものの、全くといって良いほど回転しなかったそうです。
 うまく行かないときに、微調整をしたり、改良したりするのは、日本人は得意です。しかし、水車づくりの経験に乏しい大堰川付近の農民が、あれこれと直そうとしたのでしょうがうまく行きませんでした。所詮、素人の集まりですので、当然なことかも知れません。
 京都の南、奈良に近いところに、平等院があります。その西側には宇治川が蕩々と流れています。宇治茶の産地として知られますが、お茶は水はけの良いところに育ちます。宇治は、扇状地として水はけが良いだけではなく、その豊かな水を用いた治水に長け、それが活かされた土地です。
 宇治の人達は、水を操ることは、難しいことですが、長年、治水対策経験を積んできました。その宇治の里の住民が、亀山殿の水車のことで呼ばれるのは、時間の問題だったでしょう。むしろ、始めから、そうすべきだったといえます。いとも簡単に水車が作られ、期待通りに回転して、池に水を汲み上げることができたことはいうまでもありません。

 現在では、政府が新たなプロジェクトを組む時を見ますと、大した経験もない人が、名前が知られているというだけで、その組織のトップにすえられます。
 その案件を通すために、失敗要素を無視して、少なめの予算で国会で立件し、不十分な案を通し、あとになって、追加予算で穴埋めをするという事業があとを絶ちません。
 企業経営におきましても、自分達が長年培ってきた経験により、時代の変化に取り残されて厳しい経営危機に陥ってしまう企業があります。
 その様な状態になってから、慌てて自分達で何とかしようともがきましても、うまく行かず、倒産への坂道を転げ落ちてしまう企業がみられます。
 その様な状態になる前に、経営コンサルタントなど、その道の専門家の門をたたけば、倒産を回避できるとみられることが多々あります。
 何事におきましても、その道に通じている人の存在というのは大きいものです。
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【経営四字熟語で目から鱗が落ちる】2-04 重考高盛 一見ムダも活かし方がある 繰り返し思考して、よりよい判断に繋げる

2024-07-13 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

  【経営四字熟語で目から鱗が落ちる】2-04 重考高盛 一見ムダも活かし方がある 繰り返し思考して、よりよい判断に繋げる    


 
  四字熟語というのは、漢字四文字で構成された熟語であることはよく知られています。お恥ずかしいながら、その四字熟語というのは、すべてが中国の故事に基づくものとばかり思っていましたが、実はそうではないことを発見しました。
 経営コンサルタントという仕事をしていますが、その立場や経営という視点で四字熟語を”診る”と、今までとは異なった点で示唆を得られることが多のです。「目から鱗が落ちる」という言葉がありますが、四字熟語を講演や研修の場で用いたり、自分の仕事や日常会話に活かしたりするようにしましたら、他の人が私を尊敬といいますとオーバーですが、自分を見てくれる目が変わってきたように思えたことがあります。
 四字熟語の含蓄を、またそこから得られる意味合いを噛みしめますと、示唆が多いですので、企業経営に活かせるのではないかと考えるようにもなりました。これを「目鱗経営」と勝手に造語し、命名しました。
 以前にも四字熟語をご紹介していましたが、一般的な意味合いを中心にお話しました。このシリーズでは、四字熟語を経営の視点で診て、つぶやいてみます。以前の四字熟語ブログもよろしくお願いします。
  第2章 思考力を高めてビジネス全快
 四字熟語の中には、物事の発想や思考に関する熟語もあります。「理科系の人は理屈っぽい」とか「あの人に理屈でまくし立てられますと、太刀打ちできない」などという言葉をしばしば耳にします。
 たしかにビジネスの世界では、上手に説明ができなかったり、自分が主張していることが相手に正確に伝わらなかったりすることが多く、自分の非力さを痛感することが多いです。
 四字熟語の中に、思考に関して示唆ある熟語が想定以上に多くあります。その中には、相手の言っていることを正確に理解できるようになるための示唆を与えてくれるものがあります。どの様に発想したら、相手に自分の思いをわかっていただけるのかを感じ取らせてくれる四字熟語もあります。思考力のハウツー本としてではなく、四字熟語の中に、思考力を高めるヒントを見つけていただきたいと思います。
■2-0 4 重考高盛 一見ムダも活かし方がある
 ~ 繰り返し思考して、よりよい判断に繋げる ~


 私たちが何かをしようとしますと、何らかの情報を結合したり、重点順位をつけたり、選択したりをして、判断を行います。しかし、人間の判断というのは、その時の体調や気分などにも大きく左右されがちです。
 判断がぶれないようにするためには、論理的に事実を整理し、それを基にウェイトをかけて判断をするなど論理思考の手法を利用することが多いでしょう。そして沈思黙考して、自分の考えをまとめたり、目先だけの状況に左右された判断をしたりするのではなく、深謀遠慮を忘れてはなりません。
 ある会社で、取締役部長が常務取締役を捕まえて自分の提案をぶつけました。その常務取締役は「いいよ」と部長の提案を受け入れました。その会社における決裁ルートは、役員からの提案は、常務会に提出され、ケースによっては役員会に回されることがありますが、多くはそのまま常務会にて審議され、最終的に社長決裁となります。
 たまたま常務会メンバーの専務取締役が退任したこともあり、常務会は社長と常務取締役の2名で構成されています。部長は、常務取締役の了解を取れていることから、この案件を社長に直接に回しました。社長は、直接部長から提案書が届きましたので、なぜ常務会からの提案ではないないのか部長に状況説明を求めました。
 状況を把握した上で、例え常務取締役の了解を取れていても、決裁ルール通りの手順を踏むように、理由を添えて指示をしました。常務会が招集され、本件の審議をしているうちに、部長の提案内容に変更の必要性が出てきました。常務会では、一部変更で決定となりましたが、社長は念のため、部長から状況を再度確認した後で沈思黙考し、その結果、やはり部長案の原案の方が良いという結論に達しました。ふたたび、常務会を開催して、審議した結果、部長原案に決まり、最終的には、社長決裁も原案通りとなりました。
 一つのテーマでも、時間をおいてから異なった状況下で思考を繰り返していますと、同じ人間であっても考え方や判断方法が異なることがあります。上述の決裁方法では、時間がかかり、スピードの経営の時代にそぐわないという欠点はあります。一方、同じ内容のことを繰り返して検討することにより、異なった結論が出ることがあることを重視する必要もあります。重考をしている内に、ひらめきも出てくるでしょう。名案というのは、必ずしも「一朝一夕(いっちょういっせき)」には生まれません。「一朝」は「一日」、「一夕」は「一夜」という意味で、「一朝一夕」は「一日や一晩という短い時間や期間」を指します。
 いろいろな発想に繋がる可能性があることが「重考」のメリットです。時間がかかるという欠点はありますが、重要案件というのは、重考することにより、判断の正確性を高めることに繋げることも必要です。また、このように、同じテーマで考えを繰り返すうちに、その周辺情報も増え、異なった判断も蓄積され、四職や情報という経験だけではなく、判断方法の裾野も広がり、その結果、自分達の実力を高める、すなわち「重考高盛」が実現されるのです。換言しますと「重考高盛」とは、同じテーマを繰り返し思考することにより、思考法や判断力を高めることに繋がり、時間はかかるという欠点はありますものの、よりよい判断に繋げることができるということです。
 このように一見ムダと思える努力が、陰で別の効果を発揮していることがあります。その好例としてしばしば採り上げられるのが、自動車のステアリングの”あそび”です。蛇足ですが、ステアリングは、自動車の方向操作に使われることから、ハンドリング(操作)、すなわちハンドルという言葉が年長者を中心に使われています。ステアリングに”あそび”と言われる空回りの部分があるために、自動車をスムーズに走らせることができます。ステアリング効果を最小の力で出すためには、”あそび”がない方が良いのです。
 企業の中には、現有商品とは直接関係ない分野の研究をしているところがたくさんあります。例えばフィルムメーカーが、手持ち技術の応用として可能な化粧品の研究をしてきたことから、従来とは異なる化粧品という市場に商品投入をすることができたということは、よく知られています。一件ムダに見える研究が、電子技術の発展で急に市場が縮小した商品の穴埋め効果を発揮し、企業としての存続を強めることができることもあるのです。
 中小企業では、人的ゆとりが少ないために、最小限の人数で仕事をしているために、各社員に”あそび”がありません。そのために、研究開発部門を持てるような中小企業であっても、研究員を会社に貼り付けて、仕事をさせています。技術革新の早い昨今では、技術者が持っている技術も陳腐化してしまいます。それを補うために、各地で開催されています展示会で、情報収集しましたり、他社の商品を目の当たりにしたりする機会がありません。”あそび”を理解できる経営者であれば、技術者にその様な機会を与えられると思います。
 ムダをムダとして終わりにさせない企業が、生き残り、勝ち残れるのではないでしょうか。
「重考高盛」と逆のことを表現しているのが「一刀両断(いっとうりょうだん)」です。「一刀」すなわち一太刀で、「両断」真っ二つに切るということで、「一刀両断」とは、ものごとをためらわず、ばっさりと切って、ずばりと処置するという意味です。ときには、グズグズと「優柔不断」にためらっていないで、思い切って決断することも重要です。
「刀」に関連した四字熟語に「三尺秋水(さんじゃくしゅうすい)」があります。「三尺」は九十センチ程になりますか、刀の標準的な長さと言われています。「秋水」は、秋の早朝などにおけます冷たく澄んだ水のことですが、そのような秋の水のように冴え渡る刀が醸し出す光沢のある冷たさから、刀の切れ味を暗示するときに用いられます。時代劇が好きな方は、暁の決闘シーンなどを想像するのではないでしょうか。
「優柔不断(ゆうじゅうふだん)」は、「優柔」が「ぐずぐずしている」様子を表し、「不断」は、「他に関連することと断ち切ることができない」ということから「ぐずぐずして、自分の意志を決めかねる」ことを指します。「意志薄弱(いしはくじゃく)」にも繋がります。「意志が弱くて決断したり、頑張る気持ちが弱い」ことということから、「一旦決心したことを、持続できなかったり、他人の意見に惑わされやすかったりする」という意味で用いられます。
「首鼠両端(しゅそりょうたん)」も同じような意味です。「首鼠」は、「ネズミが穴から首を恐る恐る出して周囲の様子をうかがう」ということから、「グズグズと判断に迷い、選択肢の中から自分の意志でなかなか選べない」という決断力のないことをいいます。
 それに対して「勇猛果敢(ゆうもうかかん)」な人もいます。「勇気や決断力があり、他の人が尻込みするようなことにも思い切って取り組む」という意味です。


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■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 38段1 名利に使われて 名誉や利欲を求めることは?

2024-06-20 10:28:18 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 38段1 名利に使われて 名誉や利欲を求めることは?   

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

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 ◆第38段1 名利に使われて 名誉や利欲を求めることは?
 第38段は、徒然草の中でも第109段の「高名の木登り」と同様、私が講演などでしばしば援用するところです。
 名誉や利欲を追う人生というのは愚かなことで、その中でも、最も好ましくないのが利に迷う事であり、高位高官という出世を望むことがその次に良くないことであると兼好は言っています。
 兼好の人生観が最も滲み出ている段で、老子や荘子の影響を受けているとも言えます。
 俗世を離れている、出家者なれば事その発想ですが、それをわれわれ凡人の立場に置き換えると、そこに学ぶべき事が浮かんでくるような気がします。

【原文】 名利に使われて
 名利に使はれて、静かなるいとまなく、一生を苦しむるこそ恐かなれ。
 財多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、累を招くなかだちなり。身の後には金をして北斗をささふとも、人のためにぞ煩はるべき。
 愚かなる人の目を喜ばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて愚かなりとぞ見るべき。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

【用語】
 名利: 名誉と利益
 累(わづらひ): 面倒なこと。「害」=危害と対になった表現
 身の後: 死後
 心あらん人: 思慮分別を持つような人
 うたて: 嘆かわしいという意味の副詞

【要旨】 名利に使われて
 名誉と利益に縛られてしまいますと、それだけで汲々としてしまいます。その結果、穏やかな気持ちになるゆとりも出ないでしょう。その様な状態が一生続くということは、一生が厳しく、辛いものとなってしまいます。その様な人生を送るというのは、「実に愚かなこと」と兼好は言っています。

 財産が多く、ゆとりがあるときというのは、そこにだけ視点が集中してしまい、人間らしさを求めることには無関心となってしまいがちです。それは、人間らしい一生を過ごすという観点では、自分の身を守るというよりは、苦しめるといっても過言ではありません。
 多くの財産は、あるべき人生に害を与え、めんどうなことを引き起こす原因となります。死後に、たくさんの黄金を用いて、北斗七星を支えることができたとしても、子孫たちはそれを守ってゆくことが義務となり、それが煩いの元にもなり、厄介がられてしまうでしょう。
 真の生き方を知らない、愚かな人の目を喜ばせることを楽しむことができても、それもまた、つまらないものといえます。
 大きな牛車や、肥えた馬、金銀珠玉の装飾品も、本人は、それを自慢するかも知れません。しかし、心ある、理性ある人からみますと、かえって、それは、見苦しくもあり、愚かなことでもあると見るでしょう。
 ですから、黄金は、たくさん蓄えるのではなく、逆に山に捨てたり、珠玉は、淵に投げ入れたりするのがよいのです。利欲に迷うことは、この上なく愚かな人のすることなのです。

【 コメント 】 名利に使われて
 利欲を振り払って、思い切って、黄金も珠玉も捨て去ることで、新たの世界が広がると兼好は言います。
 出家をするということは、そのくらい思い切ったことをしなければできないほどの困難なことなのでしょう。
 ところが、現世では、生臭坊主と呼ばれるような出家者にあうことがあります。本当に出家のための修行を済ませたのでしょうか、疑りたくなることもあり、さみしいことですね。

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■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第18段 人は、己をつづまやかにし 質素な生活 

2024-06-13 00:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第18段 人は、己をつづまやかにし 質素な生活   

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。

 ◆第18段 人は、己をつづまやかにし 質素な生活
 修行を積んだ人は、人間の欲望というのが、われわれ凡人・庶民とは異なります。
 兼好も物欲について記しているところが何カ所か見られますが、私など百八の煩悩を持ち続けているといえます。無欲になることの難しさを日々感じています。
 断捨離をキチンとできる人は、兼好の言っている人に近いのかも知れません。

◆ 【原文】 人は、己をつづまやかにし
  人は、己をつづまやかにし、おごりを退けて、財(たから)を持たず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるはまれなり。
 唐土(もろこし)に許由といひつる人は、さらに身に従へる貯へもなくて、水をも手してささげて飲みけるを見て、なりひさごといふものを人の得させたりければ、ある時、木の技に掛けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に結びてぞ、水も飲みける。いかばかり心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾(ふすま)なくて、わら一束ありけるを、夕べにはこれに伏し、朝には収めけり。
 唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、しるしとどめて、世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。

【用語】
 つづまやか: 質素な
 世: 世俗的な欲望
 賢き人: 賢人、徳が高く立派な人
 許由: きょゆう、中国の伝説的な賢者で、堯帝が自分の後継者として天下を譲ろうとしましたが、耳が汚れたといって潁川で耳を洗い、箕山に隠れたといいます。
 ささげる: すくい上げる
 なりひさご: 瓢箪
 かしかまし: うるさい、騒々しい
 心のうち涼し: 心が涼しい(澄み切っていて清らか)
 孫晨: 古代中国の伝説的な賢者

◆【要旨とコメント】 人は、己をつづまやかにし
 兼好は言います。「人間は、質素な生活を常とし、ぜいたくから距離を置き、豊かな財産を持つこともなく、この世に蔓延する欲望を欲しがらないことがすばらしいだろう」と、豊かさを否定しています。
 さらに、「賢い人で富裕な人はまれである」とさえ、言い切っています。
 その事例を続いて紹介しています。
 中国の伝説的な賢者で、許由という人がいました。堯帝が自分の後継者として天下を譲ろうとするほどの人です。
 ところが、堯帝からの言葉を聞いた許由は、耳が汚れてしまったといい、近くを流れる潁川(えいせん、今日では消滅した中国の地名、そこに流れる川)に赴いて、耳を洗いました。それに留まりませず、箕山で隠遁生活を始めたそうです。
 ただ、無視をすれば、それでよいと、私のような凡人は思います。
 ちなみに「箕山(きざん)」は、中国河南省中西部の山で登封 (とうほう) の南東方に位置します。尭 (ぎょう) の時代、隠者の巣父 (そうほ) ・許由 (きょゆう) ・伯益 (はくえき) が住んでいたと伝えられています。
 許由が移ったその地では、財産といえるようなものは、全くなく、水をくむひしゃくも持たなかったそうです。許由が水を手ですくい上げて飲んでいたのを見たある人が、水を楽に飲めるようにと瓢箪を彼に差し上げたそうです。
 ある時、木の枝に掛けていた、そのひょうたんが、風に吠かれて音をたてました。許由は、それを「やかましい」と言って捨ててしまったそうです。もちろん、その後も手ですくって水を飲んでいました。
 兼好は、許由の話を聞いて、「どれほど許由の心中は、清く、さっばりと澄んでいただろう」と書いています。
 また、別の事例として、尊晨についても記述しています。
 尊晨については、どの様な人なのか、浅学の私は知りません。尊晨は、冬のあるときに、寝具を持たず、一束のわらがありましたので、夜になるとそれを広げて、その上に寝て、朝には、それをかたづけるという生活をしていたと兼好は記述しています。
 中国の人は、このような人たちの生活ぶりをすばらしいと思いましたからこそ、本にも書き残して、後世にも伝えました。しかし、わが国、日本人は、そのような賢者のことを語り伝えるようなことはなにもしないであろうと、兼好は嘆いています。
 もし、兼好が現代に生きていたとしたら、やはり同じようなことを言うのでしょうか。
 昨今では、断捨離という言葉がしばしば採り上げられます。質素倹約とは、多少ニュアンスが異なるかも知れませんが、通ずるところはあるように思えます。
 しかし、かくいう私は、情報過多の時代に、昔書きためた資料類が、未整理のまま、書斎やPCの中にたくさんあります。
 それらを、少しずつ整理していますが、若かりし頃、このような稚拙なことをやっていたのかという思いをすることも多々ありますが、「へえ、こんなことを考えたいたのか」と感心したり、それを新たに書き換える材料としたりすることもあります。
 再整理をしてみますと、それを他に活かすことができるものですね。

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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 05 「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも

2024-04-18 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 05 「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも 

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

 

 高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

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◆05 法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。

 

【語彙】

 木の端: 取るに足りないものの意で、情けない人間を指す
 げに: 誠に、本当に

 

【現代語訳】

 天皇や貴族に次ぐ位置にいる法師ほど、うらやましくないものはありません。(二重否定)

 清少納言が枕草子の中で「他の人から見ると、木の端のように取るに足りない人間のように思われます」と記述していますが、本当にその通りです。

 

【ひと言】

 徒然草は、鎌倉時代に執筆されましたので、平安時代の枕草子は当然流布されていたことがわかります。

 兼好は、30歳代で出家していますので、世間一般にいわれるのは、法師もうらやましい高貴な立場といわれていますが、法師は木の端のように取るに足りないものと謙虚にいっているのでしょうか。

 経営コンサルタントは、相手の理解を求めることが多く、学校の先生的な口調になりがちです。その結果、「上から目線」と捉えられてしまったりします。

 かつては、とりわけ、ベテランの先生に多かったのですが、自分が経営コンサルタントであることは、クライアントより偉いと思い込み、「指導してやるのだ」という意識につながり、顰蹙を買うことが結構ありました。

 しかし、近年は、その様なコンサルタントも少なくなってきましたが、いまだに散見されます。

 彼等の全てが、「好ましくないコンサルタント」というわけではありませんので、コンサルタントと契約するときには、その辺りも勘案し、自社に即した先生を選ぶことが肝要といえます。

 

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■【話材】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 04 その子・孫までは、はふれにたれど

2024-04-11 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【話材】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 04 その子・孫までは、はふれにたれど

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

 

 高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

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◆04 その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、自らはいみじと思ふらめど、いと口惜し。

 

【語彙】

 はふる: 落ちぶれる
 ど: 「~けれども」と逆説表現ではなく、「どんなに~でも」と仮定表現
 なほ: やはり
 なまめかし: 優雅である
 ほど: 程度応じて
 時: 時勢、良い時代
 時にあひ: 「時に会う」のことで、「時流に乗って」の意
 いみじ: 立派
 口惜し: 感心できない、同意できない

 

【現代語訳】

 その子や孫の代までは、たとえ落ちぶれても、依然として品があり、優雅さが保たれています。


 その人達よりさらに下方の身分の人は、それなりに身分相応で、時代の流れに乗って出世をし、得意満面な顔をしていて、自分自身は立派であると思い込んでいるようですが、あまり感心できることではありません。

 

【ひと言】

 紫式部の源氏物語などに、落ちぶれた貴族についての巻があります。

 貴族など、高貴な人達は、たとえ落ちぶれても、それなりのものを持っていることがわかります。

 一方で、自分は、高貴な出の人間だから尊いのだと鼻にかけて、鼻持ちならない人もいるのかもしれません。

 推理小説などに出て来る、イギリスの貴族に、それが描かれていることがありますね。

 

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■【話材】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 03 一の人の御ありさまはさらなり

2024-04-09 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【話材】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 03 一の人の御ありさまはさらなり

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

 

 高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

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◆03 一の人の御ありさまはさらなり、ただ人も、舎人など賜るきははゆゆしと見ゆ。

 

【語彙】

 一の人(いちのひと): 摂政・関白の別称
 ただ人(ひと): 摂政・関白以外の一般の貴族
 舎人(とねり): 高い位の人に朝廷が派遣する警護の役人
 きは: 身分、家柄
 ゆゆし: 素晴らしく立派である

 

【現代語訳】

 朝廷の儀式で第一の座に座する摂政や関白のありようはいうまでもなく、舎人の警護などを受けられる身分の高い人は、立派に見えます。

 

【ひと言】

 身分の高い人は、それなりの帰浜を持った立ち居振る舞いをされ、われわれ下船の庶民とはことなる雰囲気を醸し出しています。

 ところが、身分が高い人でも、所詮人間です。恋もすれば、デートもするでしょう。一方で、あまり俗世とかけ離れた生き方をしてきているでしょうから、上敷免でかけ離れたり、庶民の気持ちがわからなかったりするのではないでしょうか。

 庶民の外気に触れていないために、ある面では無垢で、それがために庶民からみれば顔をしかめたくなるようなことを、一途に思い込んでしまうこともあるでしょう。

 庶民でいて、よかった~~

 

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■【話材】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 02 御門の御位はいともかしこし

2024-04-07 12:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ

■【話材】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 001 02 御門の御位はいともかしこし

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

 

 高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

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◆02 御門の御位(おほんくらゐ)はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。

 

【語彙】

 かしこし: 「畏し(かしこし)」、恐れ多いこと
 竹の園生(そのふ): 皇族等
 末葉(すゑば): 子孫、「竹」を受けて「末葉」としています
 人間の種: 人間(庶民)の血筋、血統
 やんごとなし:尊い、高貴な

 

【現代語訳】

 (いろいろな願望がある中でも第一番目に挙げられることは)天皇という位で、これは、(庶民とはかけ離れすぎていて、口にすることもはばかられるような)大変恐れ多い願望です。


 皇族である子孫まで、(神様のようであられ)人間(庶民)の血統でないことが尊いことです。

 

【ひと言】

 庶民には、実現不可能な、天皇という位を望む人はいないと思いますし、皇族になることも手に届かないことです。

 しかし、総理大臣というポストになりますと、「なってみたい」という願望を持つ人はいるでしょう。

 

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