心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

『断片的なものの社会学』

2016年06月16日 | ほんのすこし
先日二冊本屋さん(市内でも数少なくなってしまった書店、ショッピングセンターに入っている)で購入してきた本の中の一冊。
『断片的なものの社会学』岸政彦著

社会学者である著者は龍谷大学社会学部で教鞭をとる。

社会学? ふと遠い記憶を探り寄せるような気分で本を開く。
そういえば、学生の頃一般教養で社会学概論とかなんたらかんたらという授業を受講したような気がする。
そう、気がするというぐらいの曖昧さでわたしの頭に入っている言葉なのだ。社会学のなんたるかも知らず、深く掘り下げようなどと思うこともなくただやり過ごしていただけの試験やレポートだったような。
そんなわたしだったから、今手元にあるこの本をめくるとかなりの衝撃を覚えた。

朝起きて夜に眠るまで、わたしの頭はフル回転している。それはなんの意味もなさない言葉の羅列だったり、目の前に在る物へのつぶやきだったり、母の話を聞きながら、あれ?そういえばあれはどこに置いたんだっけ?などと話とは関係ないことが浮かんでいたり、とにかくわたしの頭の中はフル回転なのだ。そのどれもが取るに足らないことに過ぎないのだけど。

そんななんでもないような、どうでもいいようなことを四六時中考えている。
でもたまにはすごくたまには、案外真剣にとんでもないことを考えて、自分というものは・・・とか、生きていることの不思議とか、突然どこからか沸いてきたかのように浮かんでくるものもある。

この本はそうしたわたしの頭の中をかき乱してしまった。

女性は可愛いものが好きだ、という言葉があったとして。そこに限定されるのは女性で、女性以外のものは蚊帳の外にいるという。男性だって可愛いものが好きな人もいるのだ。これが「わたしは可愛いものが好きだ」となれば、わたしに限定されるから他者を退けるものは無い。こうした他者を分断するような言い方や考え方が周りにはたくさんあるという。言われないとそれとは知らずに使っているような表現がわたしにもたくさんあるということに気づかされる。

たくさんの方にインタビューをしてきた文章には、その方々の語りの中でつまびく物語のきわどい部分、まるで暗闇の中を歩いてきてふと気がついたら、目の前に道は無く、踏み込める地面が見えなかったような、そんな人間の不安定でアンバランスを思わせるようなものを感じてしまう。
それはこの先いったいどんな言葉が出てくるのだろうというドキドキするような、戸惑うような、感覚をわたしに蘇らせる。あぁ、こんな感じ、あったなあと。

たとえば、団地に父親がやくざで母親が子供を隣の部屋にやり男を部屋に連れ込む一家がいた。そのうち父親は刑務所に入り、母親は子供を置いて出ていく。残された子供はしばらくして施設に行く。するとその部屋の階下の住民から管理会社に苦情が行く。どうにも悪臭がひどくて敵わないと。その部屋を開けてみると、そこは何も無い、綺麗な部屋だった。
最初にインプットされた【やくざ】【母親が出て行った】【子供だけで暮らしていた】それがあるだけで、部屋はゴミが散乱していて当然だという感覚。それが見事に砕け散るのだ。
こうでなくてはならないという決めつけ、臭いなどなにもないのにそう感じてしまうこと。
これは果たしてその人だけなのか?
案外、自分の中にもあるのではないか?

岸さんは色々な職業を経験している。そういう経験が随所に現れる。

読み進めていくうちに、自分というものがどこか別の世界にもいるような気がしてくる。奇妙でそれでいてこういう言葉の群れを読みたかったんだという気持ちが生まれる。
岸さんは決して押しつけない。
わからない、という言葉が時折出てくる。その言葉が出てくるとなんだかホッとしている自分がいる。

この本は読後感を書くのは難しい。でもこういう本があるということを知ってほしくてここに書き留めておく。
再読が必要な本でもある。

岸雅彦のBlog ここを読むと、少しどんな本なのかがわかるような気がする。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿