心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

すっかり冬になりました

2019年11月29日 | ほんのすこし
こんなに赤かったのに・・・すっかり葉が落ちて、今はふわふわと雪がちらついています。
寒いです。
こんなに寒かったかしら? 首をかしげたくなるほど寒いんです。体感温度がずいぶん変わったのかなと思うほど。
これが道の両側に雪が積もって周りが白い色に染まってくると、逆にこの寒さが少し和らぐように感じます。不思議だなと思いますが。

ずっと気になっていたタイヤ交換を昨日ようやく完了しました。今までは会社の車でしたので、タイヤも交換場所に運ばれていて、自分が乗っていた車をそこへ移動すれば良かったのですが、今度は正真正銘、自分の車ですからタイヤも自分で運ばなくてはなりません。昨日、約束の時間までにと思い、車庫に置いていたスタッドレスを車の後部座席に積みました。
え? 
タイヤってこんなに重いの!?
ずっしりと重くて、しかもそれを座席に置くという・・・なんてこった! そんな感じ。それを4回も繰り返し。
運びながら考えましたよ。こんな重いものをわたしはこれから一年に二回も作業しなくてはならないんだ・・・これって何歳まで出来るのかしら、と。
ウクレレのレッスン仲間が「タイヤ交換は旦那さんがやってくれるから、わたしは何もしなくてもいいのよ」と話していたのを思い出し、旦那がいるのもいいものだなとつい思ってしまいました。タイヤ交換のときだけの旦那ってどうよ? あり得ないことを考えるわたし(笑)

今まで会社からは沢山の恩恵にあずかっていましたが、こんなに重い恩恵を受けていたなんて(笑)つくづく有り難かったんだなと会社のある方角をつい仰いだわたしです。

タイヤ交換が済んだので、今朝、母を病院に連れて行くときにちらほら雪が降ってきましたが、すっかり安心して運転できたのでした♪

女ごころ

2019年11月20日 | 母のこと
今日はウクレレレッスンの日。
だから早め早めの行動を。なにせ朝から雪だからね、タイヤ交換まだのわたしは運転もゆっくりで行かなくちゃ。
洗濯を干して、さて、少しお化粧していこうかなと洗面台に立っていた。すると、母が居間のドアを開けて顔を覗かせた。わたしが洗面台の前に立っているのを見ると
「髪おかしくないか?」と言うので、
「えっ、わたしの髪おかしい?」と聞くと
「いや、こっちの」と自分を指した。意味がわからないので、そばにいき
「何、何。母さんの髪が変だかってか?」と聞いた。
すると頷いて、
「いつも洗面台で髪を見てから行くんだけど、お前が使っていたから。」
「あ~!、母さん仏壇の前に行くからかあ! 女の子なんだからあ!」と笑った。

朝、仏壇に手を合わせる。すでに亡くなって10数年経ったわたしの父と弟がいる。

母さんは仏壇の前に座るときでも髪型を気にしているのか・・・
おしどり夫婦だったもんね。

なんだかすご~く羨ましく思えた瞬間だった。

パソコンでもアクションボタンが

2019年11月12日 | ほんのすこし
ずっとスマホでしか「いいね!」「応援」「続き希望」「役だった」のボタンがなく、ほとんど記事投稿はパソコンで行っているわたしには、パソコンでほかの方のブログを見たときもアクションボタンがついていたらなあ、と思っていたのですが、今日から記事の下の部分にそのボタンが表示されるようになっていました。
以前、パソコンで見る記事の下にはフェイスブックやツィッターのボタンはありましたが、その二つをしていない私には読み逃げというか、コメントを残せないときでも何かリアクションが出来たらいいなと思っていたのです。コメントを残すのはなかなか出来なくても、記事を拝見したときの自分の気持ちが少しでも残せたらなと。
ただアクションが4個しかないので、記事の内容によっては、どのボタンを選んだらいいのかと迷うこともあります。

フォローしているブロガーさんの記事は多岐にわたっていて、自分には無いものに触発されることがしばしばです。

いつもコメントをくださっている方がお休みに・・・そういう時は大丈夫かしらと思います。以前もそういう方がいてすごく心配したのですが、何ヶ月も経ってから更新されていたのを見てホッとしました。今回もゆっくりでいいから再開されることを願っています。

ここでの繋がりも長い方もいれば新しい方もいます。15年という年月はほんとにあっという間でした。2004年の11月末、ドキドキしながらのgooブログ開設でした。ただ日頃の思いを淡々と吐き出せる場が欲しかった、辛い時期を引きずって、それでも前に進もうと思える自分がいて、自分で自分を励ましていました。そして、死と隣り合わせだった時間を乗り越えて生かされたのだということを大事にしていきたいとも思ったものでした。
だんだんその意識が薄れ、こうして生きていることがずいぶん当たり前に感じてしまって・・・
あの頃の自分に戻らなくては、と思います。助かった命を丁寧に生きていかなくては、ね。

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命とは君たちが持っている時間である 日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)月刊誌『致知』

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僕はいま人生において最も大切だと思うことを、次の世代の人に伝えていく活動を続けているんです。

僕の話を聞いた若い人たちが何かを感じ取ってくれて、僕たちの頭を乗り越えて前進してくれたらいいなと。

その一つとして僕は二年前から二週間に一回は小学校に出向いて、十歳の子どもを相手に四十五分間の授業をやっています。 

最初に校歌を歌ってもらいます。
前奏が始まると子どもたちの間に入って、僕がタクトを振るの。

すると子どもたちは外から来た年配の先生が僕らの歌を指揮してくれたというので、心が一体になるんですね。
僕が一貫してテーマとしているのは命の尊さです。難しい問題だからなかなか分からないけれどもね。
でも
「自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん」
と言ったら、全員が挙げるんです。

「では命はどこにあるの」って質問すると、心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。
僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、このように話を続けるんです。

「心臓は確かに大切な臓器だけれども、これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。命とは感じるもので、目には見えないんだ。君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。
 空気見えるの?
 酸素は?
 風が見えるの?
 でもその空気があるから僕たちは生きている。このように本当に大切なものは目には見えないんだよ」と。

 それから僕が言うのは
「命はなぜ目に見えないか。
 それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
 死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
 どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。
 さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」ということです。

僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。そこには
「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間瞬間をどう入れるかが私たちの仕事ですね」と書かれていた。
十歳の子どもというのは、もう大人なんですよ。あらゆることをピーンと感じる感性を持っているんです。
僕自身のことを振り返っても、十歳の時におばあちゃんの死に接して、人間の死というものが分かりました。
子どもたちに命の大切さを語り続けたいと思うのもそのためです。

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このような授業を受けることが出来た子供達は幸いですね♪


切り絵作家さんのポストカード

2019年11月10日 | ほんのすこし
インスタグラムでフォローしている切り絵作家さん、たけうちちひろさん

ちひろさんが、ご自分のインスタグラムの10月27日の投稿で、栃木にある認定こども園さくらさんがこの度の台風で被害に遭われ、園舎も設備も絵本も水浸しになってしまったとのこと。そこで絵本を提供できる方はいないかとの呼びかけの投稿でした。
たまたまわたしの所には絵本の読み聞かせ活動をしていた頃に買い集めた絵本がありました。そろそろこの絵本たちも整理しなければいけないなあと思っていたのです。できれば誰かのためになる形で整理できたらいいなと思っていたのです。
すぐに作家さんに連絡をとり、絵本を整理しました。本は重いので、段ボールは小さめにし、三個に分けて送りました。送ろうと決めてから急いだので、お手紙も何もできず、ただそのまま送ってしまいました。後で色々な方がそれぞれ気持ちを込めて送っていることを知り、慌てて送ったとはいえもう少し丁寧な対応をすべきだったなとちょっぴり後悔しています。

ちひろさんは切り絵作家で、絵本作家でもあります。インスタグラムで知りましたが、不思議な雰囲気の切り絵、生き物たちがユニークで見ているのが楽しくなります。各地で切り絵のイベントも開催しているようです。さくら園さんでもイベントを行ったようでその縁で今回の絵本提供のお願いでした。
皆さんからの善意が1000冊集まり、まとめてワゴン車(出してくれるという方が現われたらしい)で持って行くことになったとか。最初の投稿からどんどん輪が広がって、沢山の方が絵本だったり、送る手段だったりと考えてくださっている様子に、そのほんの少しでもお手伝いできたのかなと嬉しく思っています。

そのちひろさんからの「ありがとう」カードが届きました。手書きの文面を読んでいると、こういうカードを一体何人の方に出しているのだろうと、その労力に頭が下がります。ご自分の仕事もしながらイベントもこなしながら、送ってくださった方々へのお礼をこめて出しているのでしょうね。
このカードは大事にとっておきたいと思います。
長い間、わたしの手元で所在なげに置かれていた絵本たち。孫たちが来たら読んであげようとか思っていたものの普段は手にすることがほとんどなかった絵本たちが、ようやく一番必要な場所に行ったのかなと思っています。

いつもは事が起きてからしばらく重い尻を上げるのに時間がかかるわたしですが、思い立ったら吉日、そんな気分でいます。

たけうちちひろさんのご活躍を陰ながら応援しています♪

色づく

2019年11月09日 | ほんのすこし
いよいよ寒さが・・・
朝晩の冷え込みだけではなく、日中も寒いなあと思う日が続いている。この朝晩の冷え込みはこんなところに影響が出てくる。中途半端な気温より温暖の差があれば、木々の葉が色づきやすい。

一枚として同じものがない。
スーパーの駐車場脇の壁にツタがびっしりと。それぞれに色づいていて。思わずパチリ。壁にしがみついているかと思ったら、風に揺れてブランブラン。



同じ赤でもこんなに違ってるんだなあ。



風は冷たかったけど、なんだか気分が上がった。郊外に出かけていかなくても、思いがけないところで色づく秋を発見する。それがまたわたしにとっては、お楽しみ♪

朝から寒くてお腹も冷える。今夜は鍋でも作ってみようかな♪



「まずい、非常~に、まずい」

2019年11月08日 | ほんのすこし
楽しみにしてるドラマ。『同期のサクラ』ヒロインが毎回出社時間ギリギリまで写真を撮ってしまい、慌てる場面で言う言葉。
「まずい。非常~に、まずい」
最近のマイブーム。心の中でつぶやく。
それが、ここ数日繰り返し出てくる。原因は…

今年の三月からグループレッスンに参加しているウクレレだが、一緒のメンバーがとてもいい雰囲気で毎回参加するのを楽しみにしてる。
この度、先生から12月に発表会を兼ねた懇親会があると言われた。そこでわたしが入っているグループはビートルズの『Yesterday』を演奏することになった。で、なんとわたしが歌を担当することになってしまったのだ。躊躇したけど、楽な雰囲気だからと言われ「じゃあ、やってみますか」と軽く考えて受けた。
決まってから自主練習していて、キーが合わないことに気づいた(笑) しかも出だしの音がつかめない。これは… 非常~にまずくないか?

今週のレッスンで先生に音がとれなくて困ってる事を言うと、確かに出だしの音は取りづらいねと。Fコードを使っているけど、最初の音はコード以外の「ソ」と教わった。このコードに「ソ」は無いので次の「ファ」がコードに含まれる音。だから出だしが微妙に音とりにくい。「ソファファ~」うん、わかりやすい。
そう思って自主練習 あれ? ウクレレ弾くと音がとれない! なんで? しかもカポタスト二つ上げることをつい話したものだから墓穴を掘ってしまった。声がでないよ。
しかも地声に無理があるし。あ~歌います! なんて言わなきゃよかったよ~
わたし、今、「まずい 非常~にまずい!」を心の中で連呼しまくってるよ!



違和感

2019年11月08日 | ほんのすこし
今日、わたしが書いたこと。母に必要とされていることが、存在の証みたいな… なんか違うな。
誰かのために生きているって思うことに違和感。
何か消化されないものが胃の中に残っていて落ちていかない。
いい子ちゃんぶっているなあ。
母の世話をしている自分という設定に酔っているんじゃないの?
いいとこ見せようとしているんじゃないの?
今は母もしっかりしていて痛みや動きが緩慢なことが大変だけど、まだひどい状態ではないけど、自分の手に負えない状態になったら、あんな風に思えるかな。わたしって、なんだかなあ…

こんなことを考えるとまた眠れなくなるね。
結局、ええかっこしぃなんだよ、わたしは。で、それを貫けばいいのに中途半端なものだから「違和感」なんて感じちゃう。
どうせやるならとことんやろうか、今日、揉みながら思った。もっと上手に出来るように勉強するのもありかなと。

あれ? かなり話がずれた? スマホ入力は思考も大幅にずれこむらしい…


落ち葉もいいです

2019年11月07日 | ほんのすこし
土曜日に母のお世話をしてくれていた叔母が帰り、交代でわたしが土曜日から母のところに寝泊まりしています。
叔母が帰る前に病院の付き添い、買い物、庭の立木の冬囲いを終え、叔母は最後まで外回りやら家の中のことをきちんとしていってくれました。わたしでは到底出来なかった、気がつかなかったことを手を抜かずに丁寧に仕上げていってくれたのです。わたしはいつも気が利かず、母に言われてから動くことが多いので、母は思い通りに動かないわたしにいらだちを覚えているのでは? と思うこともしばしばです。
頼みたくても遠慮していることも多いので、いつでもなんでも頼んでほしいとは言ってはいるのですが・・・

夜御飯が終わり、片付けをし終えると、コタツの上にクッションを敷き、その上に足を乗せる母。長い時間座っていて足を下げていると足が痛くなるらしいのです。テレビを見ながら足を伸ばしている脇にわたしが座ります。
わたしの目の前に母の足があるのでちょうど足をさするのに良い位置にあります。最近はその足をさすったり、足裏を揉んだりするのが日課になりつつあります。
やるたびに「あぁ、いいなあ」と気持ち良さそうにします。
昨日は「これ、やってもらうの癖になってしまうかもしれないなあ」と言うので「出来ないときもあるから、わたしの気分でね」と笑って言いました。するとちょっとがっかりした顔で「いっつもやってもらえると思っていたら駄目だよなあ」と。慌てて「大丈夫、大丈夫。やるから、やるから」とわたし。

「悪いなあ」と何度も言うのですが、出来れば「すまない」とか「悪いなあ」と言われるよりも「ありがとう」って言ってもらえたほうがこっちの気持ちが上向きになる気がします。母にとっては「やってもらってる」といった意識が強くて、自分のためにわたしが犠牲になっているという思いがあるのでしょう。でも、それは全然違います。
母の世話をすること、それはわたしが今こうして存在している意味がある証拠だと思っているからです。だれかに頼りにされていると思えること、それがどんなに喜びに繋がるか・・・
だから最近は「今日も一日無事に過ごせた」という気持ちがあります。

ここに書き込みすることもなかなかできず、色々な方の記事を拝見するのはスマホが多くなりました。コメントを残したくてもなかなかスマホでは入力がヘタで躊躇しています。更新が滞っても訪問してくださっている方がいるということにも感謝ばかりです。本当にここがあって良かった・・・
わたしにとってはどこへも行かない日常ですが、落ち葉さえ素敵だなと思えます。紅葉している木々を捜しに行くことをせずとも、ほかの方の写真を拝見し、素晴らしい秋を感じています。

さて、少しの自分だけの時間を楽しみました。母のところに戻るとしましょう。

落ち葉っていいなあ。