ここは線路沿い。
一日にほんの数本だけ電車が通る。それも部屋にいなければわからないぐらいの回数だ。たった今、そのほんの数回のうちの一回の音に遭遇した。
遠くでカンカンカンという音が聞こえ、踏切で遮断機が下りるのだろうなとわかる。道行く車が止められ、少しの時間足止めを食う。
寝転びながらそのときを想像する。自分が足止めを食うときの方が多いのだが、こうして部屋でその音を聞いているとなんだか不思議な気分になる。なぜだろう。
そこにいないのに遮断機の前にいるような感覚だ。
通り過ぎる電車は二両ほどで乗車している人も少ない。たまに高校生がたくさん乗っている時間もあるが、一日のうちの二本ぐらいだ。田舎の小さな路線、待つ車と電車に乗る人、互いの生活に接点は少しもないのだが、見送る運転席からの電車の姿は案外目に焼き付いている。こうして寝込んで電車が通り過ぎる音を聞いていても、通り過ぎた電車の姿が鮮明に頭に浮かんでくるほどだから。
都会のようにすぐにやってくる電車とは違い、一日に何本もない電車。線路もずいぶんくたびれている。
そのくたびれ加減が好きだ。
毎朝、歩きながら踏切を横切るとき、つい踏切の左右を見てしまう。立ち止まり線路の向こう北と南を見る。
線路を歩いていくことはできないが、自分の人生にも線路が敷かれているのかなとふと思ったりする。
しかれているとすれば、これから行く道はまだレールがないと思うことにする。
そのレールは自分で敷いていくしかないのだ、と。
一日にほんの数本だけ電車が通る。それも部屋にいなければわからないぐらいの回数だ。たった今、そのほんの数回のうちの一回の音に遭遇した。
遠くでカンカンカンという音が聞こえ、踏切で遮断機が下りるのだろうなとわかる。道行く車が止められ、少しの時間足止めを食う。
寝転びながらそのときを想像する。自分が足止めを食うときの方が多いのだが、こうして部屋でその音を聞いているとなんだか不思議な気分になる。なぜだろう。
そこにいないのに遮断機の前にいるような感覚だ。
通り過ぎる電車は二両ほどで乗車している人も少ない。たまに高校生がたくさん乗っている時間もあるが、一日のうちの二本ぐらいだ。田舎の小さな路線、待つ車と電車に乗る人、互いの生活に接点は少しもないのだが、見送る運転席からの電車の姿は案外目に焼き付いている。こうして寝込んで電車が通り過ぎる音を聞いていても、通り過ぎた電車の姿が鮮明に頭に浮かんでくるほどだから。
都会のようにすぐにやってくる電車とは違い、一日に何本もない電車。線路もずいぶんくたびれている。
そのくたびれ加減が好きだ。
毎朝、歩きながら踏切を横切るとき、つい踏切の左右を見てしまう。立ち止まり線路の向こう北と南を見る。
線路を歩いていくことはできないが、自分の人生にも線路が敷かれているのかなとふと思ったりする。
しかれているとすれば、これから行く道はまだレールがないと思うことにする。
そのレールは自分で敷いていくしかないのだ、と。
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