週末の昼過ぎ、市内をふらりと
走ろうと思っていたら、あまり
に天気が良いので、ちょいと足
を延ばしてみた。
古代山陽道(旧古山陽道。五街
道整備後の山陽道ではなく、律
令時代の「かげとものみち=山
陽道」)を西に行く。
かげとものみちは影面道とも書
くが光面道とも書く。
影とは日本語では光の事。
たとえば武芸の業名にもある月
影とは月光の事を指した。
陰とも同意ながら、陰は闇の意
があるもそれにも光の意味も含
む。
剣術の古伝新陰流において「か
げは光なり」と教える深淵はそ
の古語の意味に流儀の思想性を
体現しているからだ。分かりや
すくいえば、光は光だけでは存
在しない。表裏一体、光は影を
作り、影は光あるゆえ存在する。
それゆえ、光は影であり陰もま
た光であるのだ、と。
そうした学識的な思想性を有し
た新陰流は、数百と存した日本
の武芸流派では、学ぶ者に高度
な知性を要求した稀有な存在だ
った。
山陽道を光の表、山陰道を光の
裏の陰とするのは実に一面的な
捉え方でしかない。
山陽は表でも裏でもない。
また、山陰は裏日本などでは
ない。
表も裏もなく、光は影であり、
陰もまた光なのである。
便宜上、コインの裏表のよう
に「かげとも」「やまかげ」
と呼んで区分けしただけだ。
あくまでも特定、識別の為で
あり、日本海側を「裏」とす
る意識は古代日本人には無かっ
た。山陰には出雲があったし、
ヤマト人のルーツが九州であ
ろうと畿内であろうと、邪馬
台国との連綿性からいくと、
本州を北と南の海で分けて表
と裏とする概念そのものが
ヤマト人には発生する要素が
無い。
そして、豊葦原の瑞穂の国が
出雲=中つ国=中国(地方)で
あるならば、山陰こそが裏で
はなく面となる。
つまり、最近は公共放送では
社会的に回避されるようにな
ったが、日本海側を裏日本と
呼ぶ概念は、明治以降の近現
代人の豪雪地帯を僻地とした
がる差別的なものであり、元
来旧古の日本人には存在しな
かったものだ。
国道2号線、三原市本郷地区か
ら古代道に入る。
現代では道が整備され、車も
バイクも少ない快速ロード。
東広島市まで信号ほぼ無し。
景色は最高だ。
広島空港(三原市)の南を西進
するルート。
広島空港滑走路の進入塔。
この信号の無い交差点を右に
入ってみる。
滑走路進入塔の真下。
どうやって造るのだろう。
まあ、橋の建設のようなもの
だろうか。
更に西に進む。
ふと足を止めた。
景観が素晴らしい。
空と森と田園と鉄道と古代道。
道がずっと遥か向こうまで
続く。
そして全てが風景の中で溶け
合っている。
失敗した。スケッチブックを
持ってきて色鉛筆で写生する
のだった。
次回はそうしよう。
だが、風景画は景色も空の色
も木々の色も一期一会なので、
その時に感じた空気を描かな
いと駄目で、「次」は実は無
い。
この場所は水彩画でもよさげ
な場所。いいとこめっけた。
グーグルビューから。
まさにビューポイント。
こうした出会いがあるから
ロードの道行きはいい。
旧西条市(現東広島市)内で遅い
食事。きちんとした仕切られ
た喫煙ルームがあるのが好感
持てる。3月に消滅した新幹線
の喫煙ルームみたいな部屋が
ある。餃子の王将、いい。
分煙。
ここまでで家から47km。
東京なら横浜を遥かに超えて
湘南の太平洋まで行っちゃう
よ(笑
都内の多摩川の六郷土手から
湘南の藤沢までが35kmだから。
都内から太平洋湘南海岸まで
はとても近いのよ。だから江
の島や湘南海岸は都内からの
リゾート地になっている。
横浜に住んでいてベスパとか
あったら最高だろうなぁ。
横浜の住宅街。
こうした住宅街を抜けて
湘南まで。
たぶん聖子ちゃんが隠れ名曲
「ピンクのスクーター」で歌
った「ピンクのスクーターで
緑の街を駆け抜け」という街
はこんな感じの街では。
ここは横浜。
聖子ちゃんも撮影では実際に
スクーターに乗ったりしてい
た。まだヘルメット義務化で
はない頃。
ホルモン定食を頼んだが、さ
らに気になっていた「にんに
く激増し餃子」というのを単
品注文。めちゃくちゃウマい。
刻みにんにく餃子最高!
(広島県内の餃子の王将)
餃子の王将八本松店で腹ごし
らえもできたので、また走る。
JR山陽本線八本松駅付近から
南下。呉を目指していたが、
途中で「野呂山(のろさん)」と
いう看板が見えたので、野呂
山に行く事にする。
とんでもない速度でホンダの
バイクが抜いて行った。
あれね、TON-UPちょい下だよ。
おいらはゆっくりいくのさ~。
野呂山は右。
本日は珍しく北側からのアプ
ローチ。
途中、絶景ポイントがいくつも
あった。
瀬戸内海が見える場所や、百数
十メートルの谷にかかる橋とか。
だけど、途中停車はせずに山頂
方面へ。
これはグーグルビューから。
紅葉橋というらしい。
山頂付近の広場。
野呂山にはかつてサーキットが
あったが、半世紀近く前に廃止
された。
野呂山スピードパーク
野呂山には一つの悲しい歴史が
ある。
それは、明治「維新」後に、士
族救済計画と称して無職にさせ
た旧家臣団を屯田兵のように
野呂山に広島県が移住させたの
だ。帰農して開墾せよ、と。
淡路藩士が北海道送りにされた
ようなものだった。
冬季には厳寒となる野呂山の
開拓は辛酸を舐めた。
現在、開拓団士族の末裔は一切
山頂付近には住んでいない。
ただ、開墾された住居跡の段々
の石垣群が残っているのみだ。
私はその現地を訪れた事がある
が、真夏なのにそら寒いものを
感じた。怨念と執念のような気
が森の中に漂っている。
まるで平家の落人集落のような
空気が満ちている場所だった。
明治「維新」は、人民解放の為
の一新などでは決してない。
多くの中央集権的な一方的で
強引な政策により、社会的に
あらゆる場面に負を新たに創
造したのが明治「維新」だっ
た。
江戸期の旧階級制度を歪めて
再生産して新たな差別構造を
創作したのも明治「維新」に
よる明治政府が為した。
そして、現代の日本は明治政
府の構造、思想、発想、やり
口、人脈が継承されている。
「逆賊」と規定した旧幕府側
人脈や、旧幕時代の階級的に
差別されていた位置に置かれ
ていた人たちが現代国家の重
職に就く事は無い。全ては
旧「維新」側の人間が政治と
社会を現代でも牛耳っている。
なにかの車のミーティングを
やっていた。
ある。
それは、明治「維新」後に、士
族救済計画と称して無職にさせ
た旧家臣団を屯田兵のように
野呂山に広島県が移住させたの
だ。帰農して開墾せよ、と。
淡路藩士が北海道送りにされた
ようなものだった。
冬季には厳寒となる野呂山の
開拓は辛酸を舐めた。
現在、開拓団士族の末裔は一切
山頂付近には住んでいない。
ただ、開墾された住居跡の段々
の石垣群が残っているのみだ。
私はその現地を訪れた事がある
が、真夏なのにそら寒いものを
感じた。怨念と執念のような気
が森の中に漂っている。
まるで平家の落人集落のような
空気が満ちている場所だった。
明治「維新」は、人民解放の為
の一新などでは決してない。
多くの中央集権的な一方的で
強引な政策により、社会的に
あらゆる場面に負を新たに創
造したのが明治「維新」だっ
た。
江戸期の旧階級制度を歪めて
再生産して新たな差別構造を
創作したのも明治「維新」に
よる明治政府が為した。
そして、現代の日本は明治政
府の構造、思想、発想、やり
口、人脈が継承されている。
「逆賊」と規定した旧幕府側
人脈や、旧幕時代の階級的に
差別されていた位置に置かれ
ていた人たちが現代国家の重
職に就く事は無い。全ては
旧「維新」側の人間が政治と
社会を現代でも牛耳っている。
なにかの車のミーティングを
やっていた。
ハニィ号。
館内私だけ(笑
さざなみスカイラインを南下
して海沿いまで下る。
路面が荒れているロードで、
走行注意。
現在、家から走行距離81km。
して海沿いまで下る。
路面が荒れているロードで、
走行注意。
現在、家から走行距離81km。
野呂山の山頂から家まで、ノン
ストップ70kmを快速弾丸。
帰りは国道185号線の海沿い
シーサイドラインを走行した。
18:00過ぎに帰還。
全走行距離151km。
この周回ルートは、原付の
チョイノリに丁度いい塩梅
の距離だ。
特に広島県道59号線HP59が
オススメ。信号も無く、交
通量も少なく、適度にワイ
ンディングもあり、景色も
良い。R185も海沿いをずっ
と走るので快適。
帰った途端に猫が「メシよこ
せー」と猫パンチ連打してき
た。
海沿いを走ったので、あした
ベスパを洗う。
海沿い走行やフェリー乗りの
あとには二輪はまず水で洗浄
したほうがいい。
特にベスパは鉄ボディだし、
なおさら。
潮風って、車にとってはこわ
いよ~。
海岸沿いの家の人によると、
車がサッビサビになるので内
陸部よりまるで長持ちしない
よと言ってただよな。