居合斬術 -斬鉄剣二代目
小林康宏刀での斬り-1992年
「上に置くとか切れないよ」
と周囲で言われた直後に切っ
ている。
東京多摩至誠館道場での一刀。
生まれて初めて自分の斬鉄剣
小林康宏作で切った康宏使用
人生初切りの瞬間だ。
それまで全剣連初段前から斬
稽古はやっていた。
使用刀は備前長船則光で。
別名丸太斬則光。
居合においても、初段前から
真剣を私は使用していた。
居合稽古の最初の年には私は
1日500本を半年抜いた。
ゴルフでいう「下手固め」で
はなく、正しい刀法と身体の
動きを実践する事を通して。
打ち込み稽古もこなし、立木
が枯れた。
この動画はいわゆる畳表の刺
しではない置き据えの切りだ。
畳表巻きというのは巻き藁の
代用物として小林康宏刀の試
刀家でもあった先輩先達の新
陰流の方が1970年代に考案し
た。1980年代から代用品とし
て畳表巻が横浜鶴見を発信源
として関東に広まった。その
後全国的に普及した。
その源の系列にある私たちは、
正しく「畳表」もしくは「表」
と称した。
識別力ゼロのように畳表の事
を「巻き藁」とは呼ばない。
藁とは稲の茎の事であり、畳
の内部に使われる。
だが、畳の表面に打ち縫われ
る畳表はイグサである。全く
の別物。
太陽を月とは呼ばない。
現在、きちんとした日本の近
代武術の歴史を知らぬ無知な
者たちは、畳表巻の試斬が大
昔からあったかのように思い
込んでいる。
そしてその認識不足は更に
悪弊を発生させている。
而して曰く、畳表巻を指して
「巻き藁」と。
自称「藁斬り」と公表してい
る者も出る始末。ほとんど巻
藁などは切っていないのに。
それって、「二輪乗り」と自
称公開拡散させていながら、
実は三輪車しか乗っていない
人間みたいだ。
とりわけ武技においては、識
別力無き事態は本来は死を招
くのに、その危機感の自覚さ
え無い。
それは武人ではないからだ。
置斬(おききり)は、きちんと
刀法を会得している者ならば
難なく切れる。当たり前の事
だ。日本刀を腰にたばさむ刀
術者であるのだから。
連盟の段位などは一切関係な
い。
高段者でも真剣刀法が一切で
きない人間などはごまんとい
る。
要するに、学業=学術と同じ
で、何事もできる者はきちん
とできるし、できない者はで
きないだけの事なのである。
これは剣を使う道だけでなく
どの世界にも共通している。
オートバイの適正乗車と走法
も全くそれであり、できない
者はいつまで経ってもできな
い。学校の勉強と同じと考え
れば分かりやすいだろう。
学校の勉強などは同じ術系で
も簡単なもんだ。脳だけを駆
使すればよいから。
境界知能を超える平均値の知
能を有していれば、やり方次
第で学力などはどんどん上が
る。小学校の時の訓練と手法
のキモを押さえさえすれば。
IQ160などは学業には必要な
い。
本当は他の分野も同じだ。
ただ、術技が超上級者となる
と上級者同士が集まった世界
では極めて質の次元が高い分
野が構成される。
これはスポーツなどでは全く
全てがその世界となる。
誰でも大工さんにはなれるが、
本当に腕の良い大工などは国
内でも一握りだ。
それと同じ。
術系で一番簡単なのは学術で
はなかろうか。
頭で理解して把握する事で学
術学問勉学の全領域がまかな
える。こんな簡単な事は無い。
それに身体運動とかが加わる
としたら非常にできるできな
いの範囲は人間においては狭
められて来る。
それゆえ、頭だけでなく身体
を使う運動系の技術は、でき
る者とできない者の開きが発
生する。
ただし、それもまた学業と同
じで、教え方次第、学び方次
第ではグングンと実力がつく。
俯瞰するに、何事も「できな
い人」というのは、できるよ
うになろうとする脳の意志が
乏しい。100mを全員が10秒
台で走れ、と課題化されてい
るのではない。
だが、100mを10秒台で走る
には、それを目指すところに
自分がまず立たないと、どん
なに先天的な才能があろうと
も、それは結果などは生まれ
ずにゼロだ。
そして、「できない人」の多
くは、そのスタートにさえ立
とうとしない。
それは「できない」くせに自
分ができると誤認して世間に
触れ回る人間と内実は等しい。
武術の世界ではできない人間
であるのにできるかのように
拡散させて集客集金しようと
している族がここ10数年程で
非常に多いが、武術というの
はさほど困難な道ではない。
誰でも一定程度の遣い手には
なれる。真面目に素直に稽古
していれば。
ポケットビリヤードにおいて
も、こんな事は簡単な事なの
だ。
技法として「超絶技法」の類
には属するのだろうが。プロ
でもプロ全員ができる訳でな
い、という事実の点において
はいわゆる「高度な技法」な
のかも知れない。
引き玉 〜ドローショット〜
ナインボール(9番が点玉)の
マスワリからブレイク後の配置
で、黄色1番玉が一直線で手玉
ネクスト出しの振りがない。
そこをマッセジャンプショット
でロングドローさせて手玉を
次の青色2番をポケットできる
位置まで引いてくるショット。
この手のショットは私はよく
使う。マッセマンであるとい
うのもあるが、立てキューで
のドローとかはプレーヤーと
してはごく普通の当たり前の
事だ。一般的には超絶技法の
ように世間では言われるが、
私らの撞球師界隈のレベルか
らすると、ごく普通のありき
たりの通常日常ショット技術、
シュート技術、手玉コントロ
ール技術でしかない。イチロ
ーのレーザービームのように、
できる者にとってはいわゆる
アベレージのプレーでしかな
い。
このワンショットにしても、
「できない人」や「素人」か
らしたら「超絶技法」に見え
るのだろう。
最近ネットで多くて呆れるの
が、できない人や素人向けに
ごくごく当たり前のしかも低
レベルな常識的な事を動画等
で拡散させて、大衆の耳目を
集めようとする人間が滅多
矢鱈と多い事だ。
それはオートバイの乗り方で
も然り、武術(特に真剣を使
用した刀術)でも然り。
特に日本刀を使った刀術にお
いて多い。
見る人が見たら一目で判る武
芸ド素人丸出しなのに、偉そ
うに先生ぶっていたり、素人
を周囲に集めて「凄い」と言
わしめたり、真の達人が条件
がひど過ぎるので断ったテレ
ビ出演を安請け合いして無様
なまるで「切れてない」姿を
曝して、素人騙しで達人ぶっ
たりしているのも登場しはじ
めた。
「浜の真砂は尽きるとも
世に盗人の種は尽きまじ」
とはよく言ったもので、見る
に堪えない低次元の業を見せ
る破廉恥ぶりを映像化したり
している。
これは、本当に武人として恥
ずかしい限りなのだが、本人
は達人であるかのように自認
している御仁の多い事よ。
あまりに術技のレベルが低す
ぎて話にならないが、刀法に
おいて、危険な所作も発信し
ているので、由々しき事態だ。
さしあたり咥えタバコのまま
偉そうに日本刀を振り回すと
かはやめておいたほうがよい
だろう。いくらド素人を騙す
にしてもだ。それはあまりに
も日本人として、無い。
世の中、「できる人」と「で
きない人」がいる。
できない人の多くは、できる
能力があるのに、自らそちら
に向かおうとはしていない。
そして、基本的にできる人た
ちはできるようになろうとす
る意識性はあまりない。
ごくごく自然に素直な心と頭
をまっさらにして邪念を一切
抱かず、その物事に集中して
取り組んでいるだけだ。さら
りとしながら。
そして、できるようになる。
「できる人」になる。
学業も各分野の技術系も、凡
そ「技」「術」に関する事案
はそうしたものだ。
自転車に乗れるようになるか
ならないか、の違い程度の事
でしかない。
ただし、できるようになるに
は、心が清く正しくまっさら
でないと、絶対に「できる」
という領域に人間が進む事
はない。
これだけは確実だ。
それは真に「できない人」の
多くが人並み以上に邪心を有
する者たちで占められている
のが反証的に事実を現出させ
ている事からも明らかだ。
心やましい者は、要は何やっ
ても実はダメ、というやつね。
「盲信の正義感」で大量殺人
をする独裁者とか典型てやつ
ね。
ああいうのは「できない人間」
の典型。