コルト・シングル・アクション・
アーミー。通称SAA。
俗称ピースメーカー。
これは手持ちのごくほんの一部。
ピースメーカーは数十丁持って
いるが、ランパントクラシックの
ような超高級品は持っていない。
これは、貴重な国本圭一さん本人
のステージガン。
ウエスタン・アームズ製。
よくABS樹脂が割れた頃の製品。
今の時代、明らかに半世紀以上
今の時代、明らかに半世紀以上
前の亜鉛合金黒色モデルよりも
プラスティックのほうが金属感
を出せる。
ブルーイングが成功すると、プ
ブルーイングが成功すると、プ
ラスティックなのにまるで鋼鉄
だ。実銃みたい(笑
でも、実銃の画像と見比べると、
やはり金属とプラは違うんだよ
なあ。質感が。
かといって、可動式の金属性の
玩具銃を黒色に染めたりメッキ
したりすると銃刀法違反にな
る。
る。
また、非鉄金属製以外の可動式
玩具銃のハンドガン本体は違法。
つまり鉄や鋼では作れない(長物
は別)。
玩具銃のハンドガン本体は違法。
つまり鉄や鋼では作れない(長物
は別)。
そして、亜鉛合金と鋼鉄の色は、
どんなに上手くブルーイングし
ても亜鉛合金は全く鉄色とは厳
密には異なるので、違法である
以前に黒染めの意味が無い。
1971年10月以降の日本国内では、
金属製は黄色(金OK)か白(シルバ
ーメッキ✖️)でないと違法である
し、視覚上の質感を楽しむの
であるならば、プラスティック
が現在は圧倒的に視覚的には
優れている。
であるならば、プラスティック
が現在は圧倒的に視覚的には
優れている。
私などはてんで下手っぺだが、
巧い人のブルーイングや時代付
けはどう見ても実銃、という程
巧い人のブルーイングや時代付
けはどう見ても実銃、という程
に仕上げて来る。匠の技だ。
プラモデルのモデラーもそうだ
が、加工技法に長けた人の作品
は、故鑑賞を主とする目的である
に、ピシャリと鑑賞賞玩に応える。
ビリヤードのキューも、ファンシー
キューはそうした美的鑑賞要素が
強くなるが、鑑賞目的だけが主軸
となると、それは本末転倒であり、
そのキューはキューとして死んで
いる。
トイガンの場合は、アクション用
と純観賞用に二分されるのだが、
それは鑑賞目的で仕上げられた
物は純観賞用であるので本末転倒
にはなっていない。非発火モデル
のモデルガンなどはそれにあたる。
だが、ビリヤードのキューは道具
であるので、いくら超絶技巧の
インレイや加工を施そうと作者の
勝手ではあるが、実用性よりも
鑑賞性が先立つならば、それは
もはやキューとは呼べない。
勝手ではあるが、実用性よりも
鑑賞性が先立つならば、それは
もはやキューとは呼べない。
ここらあたりは、日本刀の在り方
に非常に似通っている。
研いで刃を付けると刃こぼれし
て研げないから、刃先をモノサシ
のように刃引きにしている現代
刀鍛冶もいる。
心得違いも甚だしい。
それは、日本刀の刀鍛冶ではない。
脆い鋼の延べ棒のオブジェを作っ
て鍛冶屋になったつもりの、勘違
い「作家」さんだ。刀工でも刀匠
でもない。
また、その延べ棒は、いくら高額
でも、それは日本刀ではない。
作品や製品の中に芸術性を付与さ
せるのは、職人としても才が問わ
れる挑戦的試みになる。
だが、どんなに芸術的な家具を
作ろうとも、座れない椅子、
開かない箪笥、物を置けないテー
ブル等々は、それは単なる作者の
個人的偏愛具現物でしかない。
「使う人」の事など念頭に無い
からだ。人間不在の人間疎外。
それはもはや芸術性をも帯びな
い事にもなる。
それはもはや芸術性をも帯びな
い事にもなる。
それは私的脳内妄想の産物の域を
出ない身勝手な創造物でしかない。
芸術性を帯びる産物の中で、道具
の中にアーティスティックなもの
を表現する場合と、絵画や彫刻と
は大きな違い、存在性の別次元さ
が厳然と実存する。
それを弁えていない作者は、刀剣
に刀剣の命を奪い、キューなどの
道具に対しキューの命を奪う。
そして私的存念のみを発現させて
設えて、それが芸術性を持つとし
たがる。
根本的にお門違いだ。心得違い。
だが、その闇に落ちている人間は
結構多い。
音の鳴らないバイオリンを作る者
がどうしてバイオリン製作の名師
となど呼べようか。
日本刀やキューも全く同じ事だ。