渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

たたら

2016年05月02日 | open



たたら製鉄とたたら吹きの違いが解らず混同している人が多い。
それは今の日本の大型たたら吹きを「たたら製鉄」などと表現
してしまっていることによるものと思われる。
しかし、どちらも鉄を吹くことには変わりはない。
この画像のような小たたらによるたたら製鉄は、実際のところ
やってみたいという気持ちは私自身は強い。
鉄自体は案外簡単に作れる。赤土を焙焼して炉に入れて送風
して還元により酸素をひっぺがせば鉄自体はすぐに発生する。
だが、「使える鉄」を作り出すのは難しい。

ただ鉄を作っても、鉄製品にまとめられないと鉄を作る意味が
100%ない。問題はそこ。鉄器もしくは利器になる鉄を吹かないと
意味が
ない。
いくら「古代製鉄再現」と称しても、狙った時代の鉄の解明やその
時代背景とリンクした鉄を産まなければ意味がないのだ。私的な
「ただ鉄を作ってみたい」というところで産鉄作業をいくらやっても、
それはただ箸で皿を適当に叩いて「あ~楽しい」ということと変わり
ないのである。それは音楽ではない。ちゃんちきおけさになって初めて
音楽足り得るのだ。
古代製鉄復元もしくは再現のためには、その再現しようとする時代が
いつの時代で、その時代には鉄がどのような目的で作られていた
のか、人々にどのように使われていたのかまでを含めて製鉄作業に
あたらないと、まったく産鉄の目的が外れてしまうのである。
現代人のごく個人的な自己満足のために産鉄を試みても、それは
単なる個人的な自慰行為にしかすぎず、学術的立脚点に立つものとは
到底いえない。
そこなのだ。
「産鉄のために産鉄をする」というタメにする行為が愚行であることは
論を俟たない。


自家製鉄では特に刃物用の鋼にするには、狙った炭素量を得る
ことが大切だ。

銑鉄にしてから脱炭で卸して鋼にするのか、低炭素鉄を吸炭で
卸して鋼にするのか。

いずれの場合も必要炭素量の鋼に卸す卸鉄(おろしがね)という
二次加工を必要に応じて導入することも射程に入れていては、
生産性の問題が生じる。
特に古代製鉄の解明は、ただ鉄が作れることだけでなく、生産性
や再現時代(古代といってもとてつもない幅がある。目標年代に
よって製鉄方法は異なる)の時代的背景までを見越しての製鉄行動
の復元が必要だと思量する。

よく「古代製鉄再現」として各地で自家製鉄が再現されているが、
古代といっても、縄文なのか弥生なのか飛鳥奈良なのか平安初期
なのか平安末期なのかで全く様相が違う筈であるのに、一様に
「古代製鉄」で日本人は括ってしまっている。
私にはとても乱暴な論のように思える。
一般的には古代とは奈良平安を指すが、広義には前史時代も含める
ので、「古代」の大枠で表現するのでなく、「~時代の製鉄再現」と
するのが正しいとは思われるが、要するに学術的にも日本の製鉄の
歴史についてはよく何も解っていないので「古代」で一括りにしているの
だろう。
(公的な教科書に載るような日本の歴史教育の中での国内製鉄の歴史
は「6世紀から」とされているが、実質は紀元前の縄文末期からソブに
よる製鉄が日本列島では行なわれていたと私は確信している。しかも
これはかなり後の時代=古墳時代まで継続した製鉄方法だったと読ん
でいる。
国内製鉄が巨大コンビナート化したのは5世紀の広島県内の遺跡に
みられ、強大な権力機構の完備と連動していたことが読み取れる。
なお、紀元後1世紀に太陽信仰を持つ和邇族(和珥、和仁、王仁、丸。
後の春日氏、小野氏)が渡来して日本に製鉄技術をもたらしたという
伝承については、考古学的には証明されていない。ワニとは古代朝鮮
語で剣あるいは鉄のことを意味する。因幡の白兎伝説でのワニとは
日本へ古い時代に移住した先行的来住産鉄民族ワニ族のことであろう。
鉄産出に関する質量比べが因幡白兎伝説の本義ではなかったか)

製鉄技術自体は大陸半島あるいは南方からの渡来の技術と思われる
が、日本の製鉄の特徴的なことは、「ある時期」から砂鉄を原料とする
効率の良い製鉄にシフトしていったことだ。
これは「王権」の権力掌握の歴史と密接に連動している。
こうしたことは遺跡の遷移をみれば読み解ける。

以下は「まがねふくきびのなかやま」の古代吉備国を中心とした製鉄遺跡
を示した図である。吉備は当初出雲支配下であったが後にヤマトに征服
されヤマト傘下になる。後にヤマトは出雲の支配力を簒奪するのであるが、
すべては製鉄技術をめぐる抗争であったことだろう。
この図を見ると、吉備地区と出雲地区ではあきらかに製鉄原料の新旧の
対比が見られる。砂鉄製鉄は古代における最先端技術であったことだろう。
その技術は国内統一を目指す中央王権にとっては必要不可欠なものだった。
鉄器の生産力向上は武器供給の面だけではなく、もっと大切な国造りの
根幹とも呼べる稲穂=農作物収穫の生産力アップによる増収に直結していた
からだ。日本を瑞穂の国と呼ぶのは、稲作生産力による国力を示すもので
あった。鉄と稲と王権、この三者は切っても切り離せない関係にあった。










古墳のそばには必ず製鉄遺跡あり。
上の画像は古代産鉄地域である備後国の遺跡変遷地図だが、こうした
古墳と近接する製鉄遺跡は全国各地に存在する。また全国各地にある
「金山」や「赤堀」などの地名も産鉄と関係があるだろう。
古代から中世にかけての産鉄地はその名残が地名に何かしら残されて
いる。例を挙ればきりがない。
そして、必ず、王権の人民支配の名残を継続させた中世ピラミッド式支配
構造の残滓が「地区」としてそこに残されている。これは織豊時代以降、
江戸期にさらに固定された。


たたらによる製鉄に関しては、最初の一次段階から良質(鋼の質として
良質なのではなく
刃物への適性という意味での良質)な鋼が採れたなら、
それにこした
ことはない。
日本の製鉄の原料は前史末期から概括すると、土→石→砂と変化してきた
ことだろう。現在の一般的製鉄の原料は石に戻っている。

ただ、江戸時代のある特定時期の不思議として、鋼よりも地鉄(包丁鉄
などの低炭素鋼の軟鉄)のほうが市場金額が高かったというのは、一体
どういうことが現象の背景にあったのか。
原油価格の変動と似たようなものだったのだろうか。よくわからない。