田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

競輪場と戦争の記憶

2018年06月11日 | 日々の出来事

 この日の散歩は競輪場まで足をのばしました。道路の植樹帯では八重咲きのクチナシが咲いています。

 楠の並木道の先が競輪場です。私は長い間、この道路は競輪場の進入路として作られたと思っていました。しかしこの通りの入り口には大きな石灯籠があり、途中の道にも灯籠が並んでいます。ここは参道なのです。でもこの先に神社があるわけではありません。

  途中で参道を左に折れると、競輪場の入場門です。

 この日は茨城県の取手競輪が中継されていました。スタンドには誰もいませんが、スタンド下のサービスセンターは場外車券を買う人で賑わっていました。トラックでは選手たちが練習をしています。女子選手もいました。

 若い頃、先輩に連れられてここに来たことがあります。適当に買った車券が大当たりしました。ビギナーズラックに味をしめて何度か通いましたが、全部ハズレ。それ以来、競輪で遊んだことはありません。

 競輪場の横には高さ17メートルの忠霊塔があります。昭和16年に建てられました。旧久留米師団関係の5千余柱が分骨されています。いまでも毎年5月8日に、ここで戦没者慰霊祭が執り行われています。

 競輪場はもともとは陸軍墓地で、先ほどの楠並木は忠霊塔への参道でした。久留米は明治時代からの軍都で、この辺り一帯も陸軍省の土地の一部でした。

 競輪場を出て旧軍の跡を訪ねます。久留米競輪場は正源寺公園の中にあり、スタジアムの外は鬱蒼とした林です。木漏れ日に光るアジサイの花。

 放生池に架かる橋。この橋を渡って忠霊塔へ行きます。親柱には「陸軍橋」の銘があります。昭和17年竣工。

  野外講堂。草木が繁茂していて、僅かにステージの壁が見えるだけです。

 下の写真は、久留米市のホームページから引用しました。野外講堂の全容です。半円形の、当時としては洒落た設計です。石橋文化センターが開園した当初は、園内に似たような野外音楽堂がありました。

 小高い所に煉瓦造りの塔がありました。遥拝台です。中に螺旋階段があり、屋上には「宮城遥拝」と刻まれた標柱があります。

 近づくと随分大きな建造物で、高さは5メートル弱、裾広がりの底部は直径が6メートルほどもあります。いまは林に囲まれていますが、昔は見晴らしが良かったのでしょう。野外講堂も遥拝台もどんな時に使用したのかと、思わず想像をめぐらしてしまいます。

 これは第1次世界大戦の記憶です。日本は中国青島を攻略し、多くのドイツ兵を捕虜にしました。国内各地に俘虜収容所が設けられましたが、久留米でも5年余りにわたって約1,300名が過ごしました。収容所で亡くなった11名のドイツ兵の慰霊碑です。

 サイクルファミリーパーク。子ども向けの変わり種自転車があります。競輪場の関連施設です。

  ヒメジョオンと蝶。

 ここは競輪場から少し離れた「名入の溜池」です。むかし水源地だった所で、いまは小公園になっています。写真では分かりづらいですが、アジサイの向こうで水が落ちています。ここが公園化されたのは十数年前です。大昔の合併時の約束事だと聞いたことがあります。そうだとすれば気の長い話です。

 競輪事業はいまは斜陽で、市の財政上も小さくなっています。しかし昭和24年に始まった競輪からの収益は、久留米市の戦後復興に大きな役割を果たしました。 

 

 

 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
写真がキレイですね (bassy1484)
2018-06-11 09:34:52
写真がきれいなので、自分がまるでそこにいるかのように思えました!!
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こんにちは (九州より)
2018-06-11 11:47:09
コメント有難うございます。
写真は晴れた日の方が写り映えするようです。
糸島あたりはいま元気があるようですね。
返信する

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