稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

イージスアショアの計画停止に反対する。

2020年06月17日 | 政治や歴史など


中国の核弾頭ミサイルも、ロシアの核弾頭ミサイルも、北朝鮮の核弾頭ミサイルも日本に標準を合わせている。
いくら外交努力で話し合いで抑止しようとしても、銃口を向けられた状態で話し合いもくそも無い。
生殺与奪の権限は向こう側にあり、我が国は「撃たないで」と涙ながらに頼むしか無い。
撃たれる前に相手の基地を攻撃出来るという法律もあるとは聞くが、実際はその装備も意思も無いのが現状である。

せめては防弾チョッキのようなイージスシステムをと、イージス艦の建造と配備を進めてきたが、
イージス艦は高価過ぎるし、ローテーションを組まないとダメなので非効率的であり、
それならイージスシステムを地上に置けば、安くて効率も良いだろうというのがイージスアショアである。

しかしながら、発射したブースターが地上に落ちる危険性があるというので、
急遽、問題になって計画の停止が決定されたというわけだ。

おいおい。 なんじゃそれは・・・

確かに説明不足で根回しも不十分だったのは確かである。
しかしながら、無法な国家に囲まれて、銃口付きつけられているのに対処しないのはどういうわけだ。
イージス艦を倍増(増備では間に合わない)するとか、相手の基地を叩く装備(正規空母の建造)とかは非現実的である。
何が何としても専守防衛の要としてイージスアショアは必要では無かったか?

だいたい、追撃ミサイルを撃つ必要のある時というのは、
相手が、日本に対して、核弾頭ミサイルを発射してきた時なのである。
追撃に失敗したら、何十万人、何百万もの死者が出るのである。

対し、ご心配のブースター。
追撃ミサイルのブースターが落っこちてきても、市街地に落ちてくる確率は極めて低く、
たとえ落ちて来たとしても、実際の被害は核弾頭ミサイルの被害に比べればゼロに等しいのだ。

どこまで日本人は平和ボケしているのか。
平和を求めるなら、それ相応の覚悟も必要だということがなぜわからないんだろうか。

国家間の争いは、警察が無い分、個人間の争いより力関係で物事が決着する。
国連など何の役にも立っていないし今後も変わらない。
日米安保も抑止力にはなっているが、実際に戦争が起これば機能しないだろう。

戦後、軍備を持たない日本の竹島を韓国は奪い漁民を殺傷した。(アメリカも国連も無視)
戦争後にソ連は樺太や北方領土に攻め込んできて避難する民間船を撃沈した。(アメリカは無視)
中国は、自分勝手な解釈で、日本固有の領土である尖閣諸島に武装船を毎日張り付け隙を狙っている。

思春期の頃、カッパブックスの少林寺拳法(宋道臣著)を読んで「法句経」の言葉に感激したことがある。
「おのれこそ、おのれのよるべ、おのれをおきて誰によるべぞ、よく整えしおのれこそ、まこと得がたきよるべなり」

当時、これを、「精神を整え身体を鍛え、正しい自己を確立して正義を貫きなさい」と解釈した。
そしてその精神は、自分の生きる根幹としての考え方だけでなく、正しい国の在り方にも繋がると思うのである。

つまりは、絶対に他国は侵略しないことを前提に、いかなる侵略にも全力を持って排除するという国家の強い意思である。
幼き頃、スイスは永世中立国と教えられ絶賛されたが「武装中立国+国民皆兵」だとは教えられなかった。
お花畑のような平和論では平和は保てない。ブースターの落下ぐらいなら大歓迎だ。
出来るなら、都道府県全部にイージスアショアを配備して欲しいぐらいだ。
コメント
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