私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

高橋虫麿の歌

2016-02-04 14:04:24 | 日記

 昨日は、あそこまで書いて、急用が発生したので、そのまま・・・で終わらせてしまいましたが、この歌は男女を結び付ける、とても特殊な他ではない習慣と言いましょうか風習が行われていたのを、多分、高橋虫麻呂が何処かで聞いて書いたのではないかと思いますが、どうでしょう。か????

 “鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率<アドモ>ひて  未通女壮士<オトメオトコ>の 行き集ひ かがふ嬥歌<カガヒ>に 人妻に 吾も交らはむ あが妻に 他<ヒト>も言問へ この山を 領<ウシハ>く神の 昔より禁<イサ>めぬ行事<ワザ>ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言<コト>も咎むな。”

 此の歌の意味ですが、筑波山では、“今日のみは”ですから、ある一日だけの行事だったのでしょう、男女が集い、交わる行事<ワザ>です。
 「人妻に 吾も交らなむ あが妻に 他も言問へ」
 ですから、自分も他の女性と交わります。自分の妻にも他の男が、とうぞ“言問へ”です。「言いよってください。そして、一緒に寝てください」と言っているのです。それも神様がいさめない行事<ワザ>だというのです。まあ、なんといいましょうか「そんなことがあったのだろうか」と思えるような、今の世では到底考えられない事が行われていたのだそうです。
 だからこそ、その最後に「めぐしもな見そ」で、そんなに変な目で見ないで、「そんあんことも、この筑波山では行われていたのか。あったのか。そうか、そうか」ぐらいに、余り、深く考えないでほしいと言っているのだと思います。

 それはそうとして、此の歌を読むと、他の国では耳にすることすらできないような、この特異な行事が、どうして生まれたのかという思いが深くなります。中国の三月三日の行事と同じように男女の結びつきをより深めるために、日本ではどこもであったのか、それとも筑波山のある吾妻地方だけで行われていたのかは分かりませんが、ごく自然的に発生したものではないかと考えられます。
 もしかして、このような文化が生まれた背景には、縄文人の、弥生人との接触によって生じた人口減少を防ぐ為に考え出した文化であったのかも、という思いもするのですが、どうでしょうかね???????エスキモー人の文化にそんな色合いのお話があったということをかって聞いたことがありますので。 

 「違う、そんなことはない」と言われる方もあると思います。
 伊勢物語にも“神のいさむる道ならなくに”とありまから、平安中期ごろまでの日本における男女関係は、今よりは違って、案外、あけっぴろげな所があったのが原因で、物語などを読むと、和泉式部のような性的に、案外、ルーズな人もいたようですから、そんなに特定な相手を固定的に自分一人のものだなんて考える文化がなかったのでは、と、言われるお人もおられるのではないでしょうか。