「就中<ナカニアリテ>」から場面は一転します。楊貴妃の姉たちを囲む女性達の、他を圧倒する華々しい「上巳節」の有様を歌っている場です。
就中雲幕椒房親 <就中 雲幕<ウンバク>の椒房<ショウボウ>の親<シン>>
その中でも特に 雲のように遠くまで広がって張られている幕にいる女性は椒房(皇后)のご親族です
賜名大國虎與秦 <名を賜ふ大國虢<カク>と秦<シン>と>
虢や秦の国を頂いている楊貴妃の姉たちです
紫駝之峰出翠釜 <紫駝<シダ>の峰は翠釜<スイフ>より出で>
紫駝<シダ>の峯とは、ラクダのこぶにある肉で、翡翠の釜で煮られて出されるのです(この肉は至珍な美味、最高の食べ物です)
水精之盤行素鱗 <水精<スイセイ>之盤 素鱗<ソリン>を行(や)る>
水晶で作られているお皿には白身の魚が行(や)る。「行る」とは置いてあるとか、敷いてあるという意味です
犀筋厭飫久未下 <犀筋<チョキン>は 厭飫<エンヨ>して 久しく未だ下らず>
犀の角で出来た最高級の箸は 余り沢山な食べ物があって喰い飽きて、未だに使われていません。
鸞刀縷切空紛綸 <鸞刀<らんとう>は縷切(ルセツ>すれど 空しく紛綸<フンリン>たり>
皇帝の鈴の付いた料理用の刀は、肉を縷切(糸のように細かく刻む)するけれど、空しく放りっぱなしで、誰も手さえつけない。
なお、私の持っている本には、「縷切」に「イトスジノゴトクニキッテ」とルビを振ってあります。
例によって、もう一度そこに出される料理を歌った詩を読んでいてください。
“紫駝之峰出翠釜 水精之盤行<ヤル>素鱗 犀筋厭飫久未下 鸞刀縷切空紛綸”
此処まで読んでみると、この詩の中に占める “就中”という字の効力の物すごさがお分かり頂けると思いますが、どうでしょうか????さらに、此の字は、此の詩の「結」の部分の迫力を読む者をして感じさせずにはおかないのだではと、私には思われるのですが。