生男埋沒隨百草 <男を生まば 埋沒して百草に隨はん>
あれほど嬉しがって、家中皆でお祝いした男の子であったが、どうでしょうか。成人になった途端に徴兵させられ、憐れにも、辺境の地で戦死して、その地の叢の中に投げ捨てられているではありませんか。
「五言」から「七言」と変化した詩形は、再び、ここで「六言」の一行が挟まれます。見た目には、何かこの詩の窮屈さみたいなものが感じられるように思われますが、この詩の「起」が車轔轔馬蕭蕭」の六言で始まっていますので、「結」も、その「六言」という詩形を採り入れ、形式化することによって詩としての形を整えたのかもしれません?
どれとも、日本語読みとは違って、漢音として発音的に
”君不見青海頭” <君見ずや 青海の頭(ほとり)>
あなたは見たことがないだろうか、
“生男埋沒隨百草”までは、行人、即ち、遠征の戦士たちの“道旁過者”杜甫の問いかけに対する返事でしたが、此処からは杜甫の読者に対する問いかけの歌になります。それを意図的に意識づけるための「六言」という詩形の変化ではないかと思いますが???