古代吉備は美人の国として、また、大いに褒め讃えられておりました。葉田の葦守出身の応神天皇の恋人「兄媛」がいます。また、仁徳天皇の后の磐媛の嫉妬に悩まされた「黒日売」も、当時を代表する美女だったのです。しかし、これらの美女は、何れも、中国に見られるような傾国の美女では無かったのです。おしとやかで、しかも、つつましやかな美女だったのです。そのいずれも、天皇のお側から離れて吉備の国に立ち返って暮らしております。日本には、どうして中国で見られるような政治を蔑ろにしてまで、一人の女性に夢中になり、総てをなげうって尽し、国を滅びしてしまうような男性がでなかったのでしょうかね。そんな美女がいなかったわけではありませんでしょうが。
天皇ではなかったが、「光源氏」のあの紫の上との恋も政治を忘れるほどの恋ではなかったのです。しかし、雨夜の品定めではないのですが、洋の東西を問わず、美女の話は、度々、男性世界では話題としては取り上げられるのは事実です。その女性の噂話が日本で初めて歴史書の中に書きこまれたのが、「日本書紀」です。
ある時です。時はあの雄略天皇の御代です。それも朝廷内で、高級官僚たちの間でなされていたのです。その話題の中心人物が
「吉備上道臣田狭<キビノ カムツミチノオミ タサ」
です。昨日取り上げた人は吉備の国の「下道臣前津屋」ですが、今度は、同じ吉備でも「上道臣田狭」です。そこら辺りにこの書紀を表した筆者の意図が隠されているのです。またこれも少々長くなるとは思いますが書いていきますのでお読みください。