私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

 吉備津の春はまだまだ・・・・・

2019-04-19 09:01:59 | 日記
 桜の花びらが風に舞い、水に流れて吉備津の春はもうとっくに空の彼方にいんでしまったと思っていたのですが、どっこいそうとはならず、まだ存分なる吉備津の春がどかっと青空の元に残っておりました。その遅い春色をお楽しみいただけたらと写真をお届けします。


              

              

              

              

         
          “春を未だ 吾掌に にぎりしめ
                    静心なく 一人眺めつ” 

岡田宮一年座

2019-04-18 10:22:05 | 日記
古事記には、「イワレヒコ」は“岡田宮一年座”と記されておりますが、この場所ですが、宣長などによると現在の福岡県の遠賀川の河口付近にあったらしいのです。その跡は未だ不明だそうです。
 なお、日本書紀には

         “筑紫国崗水門<ツクシノムノ オカノ ミナト>”

 と書いてあり「岡田宮」との違いが分かります。
 また、そこに滞在した期間ですが、「紀」には

     “十有一月、丙戌朔甲午・・・・十有二月、丙辰朔壬午”

 と書かれてありますから、正式に云うと40日余りになるのだそうです。「一年」と書いてある古事記との、これもまた両者の内容の違いです。念のために????

再び古事記に・・・

2019-04-17 12:09:14 | 日記
 しばらく書紀にいたのですが、また、古事記に戻ります。
 「紀」では“一柱騰宮”<アシヒトツ アガリノミヤ>と書かれていたのですが、「記」には

              “足一騰宮而献大御饗”

 と書いております。これだと<アシヒトツアガリノミヤ>とすなおに読めます。もしかして「紀」の作者も「記」の読み方を参考にしたのではないでしょうかね???わざと漢文調に文を作ったのではないでしょうか。これだと<アシヒトツアガリ>とは読めませんものね???

 この二つの文を比べてみますと、やはりその内容は兎も角として、読みやすいのは太安万侶に軍配を上げたいと私は思います。そこには「紀」にしか記されてはおりませんが、騰宮に着いたのが十月で、そこに一カ月滞在して、十一月には筑紫の国

         “岡田宮一年座<オカダノミヤニ ヒトトセ マシマシキ>”

 に到着して、そこに一ヵ年滞在します。

「一柱騰宮」をもう少し

2019-04-16 08:52:01 | 日記
 日本書紀には、この

              “一柱騰宮”
           





 について、その読み方を次の様に細字で註記しております。

               “一柱宮騰、此云阿斯毘苔徒鞅餓離能宮” 

  (なお、「毘」は田が「冠」ではなく「偏」になった字を当てております。)
 
 この宮で菟狭津彦たちは神日本磐余彦命達を饗応しますが、菟狭津彦の妹「菟狭津媛<ウサツヒメ>」の饗応の仕方がよかったのでしょうが随分と気にいって、一緒に東征していた家臣“天種子命<アメノタネコノミコト>に娶せます。古事記には書いてないのですが、これが後の中臣氏になられます。日本書紀の作者が、どうも、日本の基礎を作り上げたあの藤原氏に、今、流行りの『忖度』して作り上げた架空の物語ではないかと思われますが、どうでしょうかね????????

一柱騰宮とは

2019-04-15 07:54:40 | 日記
 日本書紀にしか書かれてないのですが、珍彦に案内されて着た菟狭<ウサ>に造られた神日本磐余彦命のために宮殿が

        “一柱騰宮”

 です。
 これを<アシヒトツアガリノミヤ>と読むのだそうです。「柱」を<アシ>、「足」と読えんでいますが、これは吉備津神社の随神門には柱が八本あるので、俗に「八足門」といっておる例などから分かります。

 ちょっと又話が飛びますが、その吉備津神社の北随心門の写真をお見せします。これは、現在、国の重文建築に指定されております。



 又話を戻しますが、この「一柱騰<アシヒトツアガリ>」と、川の流れの中に大きな柱を一本立てて屋根を支えとした家だからその様な名前を付けたのです。要するに、宇佐川の岸辺にある山元に沿って、一方を川に沿わし川の中に高い柱を一本立て、それによって家全体が支えられている大変景色のよい場所に宮殿を造って、神日本磐余彦命一行を饗応したのです。その絵が

          

 です、中央にある太い柱が「一柱<アシヒトツ>騰<アガリ>」です。