大阪にもゆかりのある反戦川柳作家・鶴彬の顕彰碑の建設運動が取り組まれています。「あかつき川柳会」の人たちが数年にわたって、公園管理者である大阪市と用地提供について交渉してきた結果、大阪城公園内の一角に、来年春に記念植樹、9月に顕彰碑を建設するもので、全国で4番目の鶴彬の句碑となります。
●鶴彬とは?
鶴彬は日本が国をあげて戦争へと突き進む時代に、強靱な精神力で反戦の川柳に命をかけて挑みました。1909年(明治42)石川県河北郡高松町生まれ、本名は喜多一二。15歳のときに『河北新聞』に川柳と詩を発表、17歳のときに大阪市此花区四貫島の従兄に寄宿し、町工場の労働者になります。1928年(昭和3)高松町に帰郷し「高松川柳会」を設立、プロレタリア川柳を主唱しました。川柳会に対する弾圧を受け検挙され筆名を鶴彬にします。21歳のとき第九師団金沢歩兵第7連隊に入営、秘密に隊内で配布していた『無産青年』を発見され、重営倉に入れられました。翌年、七連隊赤化事件の主犯とされ大阪衛戍監獄に収監されます(刑期1年8月)。1934年(昭和9)高松町で川柳活動を再開、このころに数少ない短冊作品の大部分を書き残します。1937年(昭和12)東京深川の木材通信社に就職、12月に治安維持法違反で検挙され、中野区野方署に留置、翌年赤痢にかかり未釈放のまま淀橋区豊多摩病院へ移りますが、9月14日死去しました。29歳の短い生涯で作った川柳は1044句、評論は85編です。
沈みゆく陽に人間は皆哀れ(16歳)
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやらう(28歳)
手と足をもいだ丸太にしてかへし(28歳)
●鶴彬を語る~澤地久枝さん
「あの人は、最後の何年間かおなかいっぱい物を食べた日がいったい何日あっただろう、と思いますね。赤痢で、重湯とリンゴのしぼり汁しかのどを通らないというのに放置され、臨終になってから病院にかつぎこまれた。衰弱に次ぐ衰弱で、無残な死です。私は、戦争で孤立した島で餓死した人たちのことを取材しています。木の葉1枚につまずいて倒れそのまま死ぬ。そういう戦場の斃死を書いてきているので斃死という以外にほかに表現はないと思ったんです。警察は謝れば出すのに、鶴彬は結局、志を曲げなかった。日中戦争が激しくなった38年9月14日に息を引き取った青年は最後まで反戦の筋を通して死んでいった。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だったと思います」
●建設運動のこれまで
鶴彬は1931年(昭和6)、22歳のときに治安維持法違反で大阪城内にあった衛戍監獄に収監され、1年8ヵ月の呻吟の日を送りました。私たちは、鶴彬没後70年を前にこの地に「鶴彬顕彰碑」の建設を計画、このたび大阪城公園を管理する大阪市から用地の使用を認められました。全国の川柳人をはじめ、鶴彬をあいするすべての皆さまのご支援をお願い申し上げる次第です。
●全国の鶴彬の句碑
枯れ芝よ団結して春を待つ(石川県かほく市、生誕の地)
暁を抱いて闇にゐる蕾(石川県金沢市、卯辰山公園)
手と足をもいだ丸太にしてかへし(岩手県盛岡市、松園観音墓地)
●お願い
1.賛同募金(1口2000円)にご協力ください。
2.建設運動を周囲のみなさんに広げてください。ご紹介いただくと資料をお送りします。
●計画の概要
1.大阪城公園内の一番櫓南西(衛戍監獄跡地)に「鶴彬顕彰碑」を建立します。
2.2008年春に記念植樹、2008年9月に顕彰碑と銘板を建立します。
3.予算は500万円とし、広く募ります。
●呼びかけ人
澤地 久枝(ノンフィクション作家)
木津川 計(『上方芸能』代表)
本田 智彦(社・全日本川柳協会事務局長)
塩満 敏 (川柳作家)
田中 正坊(川柳作家)
●事務局・連絡先
川端一歩、森村美花、岩佐ダン吉、近藤 正
〒596-0824 大阪府岸和田市葛城町891-22 岩佐ダン吉 宅 TEL/FAX 072-428-0325