学校が再開し、あわただしく駆けるように過ぎ、今頃夏休みが始まって喜びいっぱいの時なのに「今日もテストやったわ。あ~いややな」の声。すでに不登校なども始まっているようで、相談の電話がかかってきている。
そんな中で、こんな嬉しい子どもの作文が飛び込んできた。
◇ ◆ ◆ ◇
先生いっぱい…
五年 純太郎
ぼくが、なぜ「先生いっぱい…」の作文を書こうと思ったかは、理由があります。
それは、ぼくは正直に言って一年から四年までは学校が大きらいで、その理由の一つが先生でした。
だって宿題はいっぱい出されるし文句を言ったら量をふやされるし、先生となんかずっと仲よくなんてなれないと思っていました。友達と遊んで、先生となんかしゃべるのは、じゅぎょうだけでいいと思っていました。それで、四年間ずっと先生と交流を深めたりしませんでした。
そして、五年生もそのままでいいと思っていました。
そして、始業式の時、一組の教室とわかって教室にもどると、丸字で「よろしく」と黒板に書いていました。女の先生かな?と思ってこう堂に行って、先生発表の時にだれなんだろうと思って聞くと
「五年一組たんにん岡崎先生」
「だれやねん!」と心の中で思って顔を見てみると…「やば」と思いました。
なぜかというと、いかにも宿題めっちゃくちゃ出しそうで、文句を言うとブチギレられると思うぐらいのこわそうな先生だったからです。「一年間…終わった」と思って、始業式が終わって教室にもどると、なぜかいきなりマジックを始めました。「なんでー」と心の中で思っていると、おもいっきり失敗しました。
教室の中で笑いがおきると、この先生もしかしたらいい先生なんかも知れへんと思って、先生に話しかけてみると…なんかめちゃくちゃ仲よくなれました。
それを機に、まず水野先生と仲よくなれました。その次に吉田先生と仲よくなれました。そして、今でも仲がいいし、一番思ったのは「なんか学校楽しいな」と思いました。
先生と仲よくなれてよかったです。
でも、やっぱりおこったらこわいし、宿題多いし、やっぱり予想があたりました。
◇ ◆ ◆ ◇
先生が「何でも自由に書いていいですよ」と言って、初めて書いた作文だ。ちょっと言いにくいこともずばっと本当のことが書ける先生と生徒の関係性が実にいい。出会ってそう間もないのに。
その岡崎先生がいい。立派な教えや教訓をたれるのではなくて、いきなりマジック。それも失敗して大笑い。この立派でない先生の素の姿がいい。出会ったその日に、安心の空気が子どもたちに届いている。失敗した時、岡崎先生はご自分も子どもらといっしょに笑ったにちがいない。あっ、ぼくらもこの教室では失敗してもいいんだ、ほっとしたなあ、という思いが出会いの日に届いたのだ。
それをきっかけに他の先生とも仲良くなれて「なんか学校楽しいな」と思う純太郎くんが、かわいいなあ。
それにしても、最後の一文がまたいい。「でもやっぱりおこったら…やっぱり予想があたりました」。もしこの最後の文が「ぼくは学校が楽しくなって、岡崎先生がますます好きになって勉強もがんばりました」で終わっていたらどうだろうか。よい子のよい作文で、エセ道徳の匂いすらするではないか。
最後の一文が書けたのは、先生との信頼関係ができているからこそだ。「モチモチの木」というお話がある。あかんたれの豆太が大好きなジサマが急病になった時、夜道をはだしで、一人でイシャサマを呼びにいくのだ。「勇気のある子になった」で終わらず「夜中にションベンがこわくて、またジサマを起こしたとさ」で終わる、この人間くささが実にいい。そんな話を思い出させてくれた人間くさい教師と生徒の関係が好きだ。
(とさ・いくこ和歌山大学講師)