先日の蝶ヶ岳・常念岳登山を終えた翌日、信濃大町の扇沢から黒部ダム(黒四ダム)に行った。幸い天候が好転しダムを挟んで対岸に聳える立山連峰がよく見えた。平日にも関わらず、大勢の陽気な中国人観光客に混じって日本人観光客がいるといった感じで賑わっていた。

そんな観光客の喧騒から外れた場所に、ダム建設工事 中の事故で亡くなった171名の碑銘のプレートが設置されている。よく見ると同じ苗字の人が何人もいる。家族、あるいは地域総出で出稼ぎに来ていたのだろうか。

この黒部ダムは戦後の電力不足を賄うために関西電力がそれこそ社運を賭けて建設したものだった。当時の電力不足は深刻で、企業は週3日、家庭は週4日の計画停電が続いていて、電力不足は戦後復興の大きな遅れの原因にもなり、かつ深刻な社会問題でもあった。当時の記録映像には電気の供給不足に我慢できなくなった大阪市民たちが関電本社ロビー に乗り込み、布団を敷いてまでの迫力で電力供給を要求するハンガーストライキを行うシーンもあった。
そこで当時の初代関電社長だった太田垣は戦前から目をつけていた秘境の黒部川のダム建設をついに決意、総工費513億円(最終的には資本金の5倍)の難工事に取り組む。
工事は大変な困難の連続で、特に大量の地下水と岩が崩れ落ちてくる「破砕帯」の貫通工事はその象徴であり、映画「黒部の太陽」でよく知られている。着工から7年目の1963年に黒部ダムは竣工、第四発電所から送られてくる電力は関西の戦後復興に多大な力となり、現在は33万キロワットの電力を供給する日本最大の水力発電所として稼働している。
そんな歴史をたまたま知ったものだから、このたびの3.2億円もの原発マネー還元事件の経営陣と当時の関電の姿との落差はいったい何なのだろうかと思ってしまった。

黒四ダム後の関電は1970年の美浜原発をはじめとする原発事業に乗り出していく。しかし東京電力福島原発事故を契機に脱原発の声が沸騰、関電の原発は稼働中止、一部廃炉に追い込まれる。だが安倍政権の原発政策の下、「再稼働のためならなんでもあり」の風潮が作られ、現在3カ所が再稼働し、さらに再稼働を目指そうという時に今回の事件が発覚した格好だ。
驕れる者久しからずとでも言うのだろうか、脱原発という世界の流れに目を向けることなく、人間の手では最後まで責任を持つことが不可能な原発にいつまですがり続けていくのか。さらになによりもこの不正の原資は私たち市民が支払った料金だ。この事件の真相解明が、再び脱原発世論を押し上げ、安倍政権への大きなプレッシャーとなることを期待したい。