「知ることは愛すること」 ある学生のレポート
◎救いのある教室
これは、大学で出会ったある学生のレポートである。彼女は、大学に通いながら子育てをしている。ところが、彼女は「ずうっと学校が嫌いで、この教職の授業も『敵状視察』に来ているつもりだったけど…」と書いていた。
「この授業に出て、救いのある教室もあると思えるようになった」という大学院生、桂結衣さんの命が輝くようなレポートだ。学校の値打ちをしみじみ考えさせられた。
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指さす先の花の名を全部答えてくれたらなぁ、「ああ、この人は本当に花が好きなのだ」ときっと思うにちがいない。
どう思うか思われるかは別にして、恋をした相手のことを一つ知る毎に一つ心に灯りがともっていくようなあの気持ち。知るということろ愛するということとは、どうしてだろう、こんなにも結びついている。(一歳半の息子の心の中でさえ、既にその結びつきは、確かに存在するように見える)。
教室の中で、あるいは教室の中から、私は一体どんなことを知り、どんなことを知ってもらってきただろう。私は、そこで、たくさんの知識を教えてもらった。今学問を愛する基盤に、確かにそれはなっている。それから友だちのあれやこれや。友情と恋は心のどこの部分が暖かくなるかが違うだけ。彼ら彼女らと何かするたびに、それが何であれ、新しく柔らかい光が点いた。他には――もうその他が私にはうまく思いつかない。本当は、教室には、もっとたくさんの人がいたのに。
教室というのは、小さな場所ではあるけれど、世界そのものだし、世界の練習場だとも言える。教室には、世界には気が合う人ばかりではなく、価値観が合わない人、ソリの合わない人も絶対いて、排除して自分に都合のいいものを作ることなんてできない。その人たちを「大好きだ」と思い込むことと愛するということとは違う。愛するということは、その人の命の存在する場所を認めるということだ。「好きな人」というところでなくてもいい。「イヤなやつ」という場所でもいい。それでも、その人の生をないもののように知らん振りすることの悲しみとは比することもできない。少なくとも私は、教室というところで知らん振りし続ける命が、人生があることを次第に自分の中に受け入れてきてしまった。初めてピカピカの教室に入った時の全ての命、全てのものへのあの「知りたい」という気持ちを奥深くしまって…。
教室で、知り合うということ、知り続けるということ、その「学び」は、何者からも奪われてはいけない。世界を愛する権利を、子どもに失わせてはならない。
日記や作文によって、先生が生徒のことを知る。先生は生徒を少しずつ愛してゆける。この授業で学んだ最も大切なポイントは、その先だ。愛することを教師の特権にするのはただの歪んだ支配欲でしかない。生徒も先生を、生徒が生徒を、先生が先生をそれぞれが生きるところの家族、地域を知り、愛する権利があるということだ。人は、もっと他人に興味をもっていいのだと世界はそういうふうにあるのだと学べるところを担保するのが教師という仕事なのではないだろうかと。
中・高の教員の場合は、担任として関わる時間はぐっと減るだろうが「教員として生徒を把握しておく」では決してなく、人として互いに知り合うという立脚点を見失わなければできることは存外多いのではないだろうか。それに物理を教えるにも、ただ物理を教えるだけでなく、それによりどんな世界を知ったのかを大切にシェアすれば、それは一つの世界の愛し方の扉を開くことにほかならない。学校が知り合い、愛し合う場としての世界の縮図であるとすれば、実際にその世界に生きる者として(学校なんて〝クソクラエ〟などと思った過去の私)、学校そのものとも、もっと知り合い、愛し合いたいと今は思う。
花を好きな人は、その名を自分一人のものとして内緒に抱え込んだりしない。知り愛した者は、また誰かに知らせていく。教室が、学校が、世界が知り愛し、そこで完結したりせず、のびやかにまた次へと広がっていく。その営みが自然にできる場であるように、私はこれからの日々を大切に生きる。