約400人が死亡した長柄橋
大阪大空襲の凄まじさを伝える代表的モニュメントの1つが長柄橋南詰めの慰霊碑だ。1945年(昭和20)6月7日、大阪市東北部を中心に第3次大阪大空襲に見舞われた。米軍資料によると409機のB29と138機のP51ムスタングによる空襲だった。1万人近い死傷者と6万戸の被災家屋を出し、20万人を超える人々が家を失った。爆撃と火災からのがれるため大勢の人が淀川河川敷へ避難した。当時は大きなビルもなく、長柄橋の下は恰好の避難場所だった。
長柄橋南詰めにある空襲慰霊碑
ところがそこに1トン爆弾が投下され、橋の半幅が落橋。さらに激しい機銃掃射があり、約400人が死亡した。橋脚に残された弾痕は、戦後も「目に見える」戦争の傷跡として貴重なものだった。
新しい橋に造りなおすことになり、81年9月「旧長柄橋の空襲跡の保存を求める連絡会」が結成され「少なくとも橋脚の現状保存の方途を講じた上に、弾痕の由来を記した説明板を立てること」を求めて大阪市土木局や近畿地建大阪事務所、大阪市議会などに陳情していた。市の土木局は「治水上、現地保存できない」として、1m四方のコンクリート塊だけが「生き証人」として慰霊の観音像の隣りに移し替えられた。また、一番近い豊崎中学校の校庭にも保存され、被爆50年の95年8月、その橋脚片に銘板がつけられた。
慰霊碑の横に弾痕がある橋脚の一部が移設されている
豊崎西公園の時計塔の銘鈑には「昭和20年6月、このあたりは第2次世界大戦により焦土と化しました。焼跡の瓦礫の中で昭和21年9月、明日へのまちづくりを目指して大淀地区復興土地区画整理事業が起されました…」と記されている。公園北側の大阪市営住宅の東側には、ひっそりと「豊崎第六尋常高等小学校跡地」の碑が建てられている。空襲で小学校は全焼し再建されることなく廃校となった。
豊崎西公園の時計塔の銘鈑「甦るわが街」には「昭和20年6月、この辺りは第2次世界大戦により焦土と化しました。…」と記されている
豊崎第六尋常高等小学校跡地の碑
豊崎中学校の校庭にある旧長良橋橋脚の弾痕、銘板には「アメリカのB29やグラマン約250機が来襲。逃げ場を失って旧長良橋下に避難してきた人々に、直撃弾をあびせた。400人近い市民が重なりあって死んだ」と記されている
空襲を生き延びた銀杏の大木
天五中崎通商店街にあるカラト金物店の床下には、今も防空壕が残っている。焼け残った古い家にはたいてい防空壕があったというが、現在は貴重なものだ。
カラト金物店に残っている防空壕
街中を車で走っていると「なんで?」と不思議に思う光景がある。北区の神山の交差点を南へ野崎公園の西側あたり、西天満までの間にイチョウの大木があり、それを避けるように道路が左右に分かれている。よく見ると「龍王大神」と書かれた祠や朱色の鳥居もあり、これが神社であることがわかる。「大融寺」とも書かれているとおり、かつてはこのあたり一帯が大融寺の敷地だった。戦災復興の区画整理や道路拡幅で伐採しようとしたが、工事に従事した人たちがことごとく変死して伐採は中止され、ヘビの神様である龍王大神をまつるようになったという。昔から「巳さん」と親しまれ、イチョウは空襲で焼けたものの再び息を吹き返し、今も健在だ。
空襲で焼けた「龍王大神」のイチョウ
たくさんの人が訪れるお初天神(露天神社、北区曾根崎2丁目)にも戦争の傷跡がある。本殿の前の一対の石柱のどちらにも弾痕がある。一時期、柱に説明文が貼られ「米軍グラマン戦闘機による機銃掃射弾丸跡」と書かれていたが、戦闘機はP51ムスタングという説が有力だ。
戦時中、戦闘機の機銃掃射に逃げまどい「操縦士の顔が見えるほどだった」という体験を何人もから聞いたことがある。ただし戦闘機の機種まで庶民が知る由もなく、戦闘機はすべて代名詞のように語呂のいい「グラマン」と呼んでいたというのが真相のようだ。
お初天神の石柱に機銃掃射の弾痕がある
天六ゴーストップ事件
陸軍兵と巡査の喧嘩がきっかけで陸軍と警察の大規模な対立に発展した事件。「ゴーストップ」とは信号機を指している。満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、政軍関係がきかなくなるきっかけの1つとなった。
1933年(昭和8)6月17日、曽根崎署の交通課巡査戸田忠夫は、天神橋筋六丁目交差点の交通整理に当たっていた。戸田は阪急梅田駅前が勤務場所だったが、同僚の病欠でこの日だけ天六に回され、緊張気味で職務に従事していた。往来の人、車とも不慣れのため信号無視が多く、交差点の中央に巡査が立ち、整理しなければならなかった。十丁目筋(天神橋筋商店街)に通じる横断歩道の中央に立ち「さっさと横断しなさい」と呼びかけた。
そこへ、交差点の北東角電停で堺筋線の市電を待っていた兵士が信号を無視して飛び出し、やってきた市電めがけて駆け寄る。「危ない。こら、止まらんか」戸田は大声を上げて追いかけた。
兵士は陸軍第四師団歩兵第八聯隊第六中隊所属の中村政一一等兵。厳しい演習を終え、久しぶりに一泊二日の休暇。この日、朝7時半ごろ法円坂の兵営から現在の東淀川区小松の実家に戻り、母親から小遣いを渡され、新世界へ遊びに向かっていた。
2人のいざこざはエスカレートし、たちまち交番の周りには、「大変やぞ。お巡りと兵隊のけんかや」とやじ馬が殺到する。誰かが大手前の大阪憲兵隊に連絡し、伍長(下士官)がサイドカーで駆けつけ「貴様ら衆人環視の中でなにしとるか」と一喝。中村を引っ張っていき、やじ馬も解散した。午後から交代した戸田は曽根崎署に戻り上司に報告する。「そら、気の毒やったな。お前に落ち度はない」と慰められ、胸をなでおろした。ところがこれが大事件に発展する。
午後2時15分、難波大阪憲兵隊長名で「あれが軍服を着ている者に対する警察官の態度か」という厳重な抗議が出された。この日、第4師団の井関隆昌参謀長は友ヶ島へ魚釣りへ、曽根崎署の高柳博人署長はお忍びで長良川へ鵜飼い見物へ行って双方不在だったため、話し合いの機会が失われた。第4師団では、井関参謀長を飛び越えて師団長の寺内寿一(寺内正毅大将の息子で短気者として知られていた)の耳に達した。
警察側は穏便に事態の収拾を図ろうと考えていたが、6月21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わり、最終的には昭和天皇の耳にまで入ることとなった。寺内は、最初は職責を果たしていない井関に怒りをぶちまけたが、やがて事件そのものを本気で怒り出したという。
6月22日、井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言した。6月24日の第4師団長寺内寿一中将と縣忍大阪府知事の会見も決裂した。
東京では、問題が軍部と内務省との対立に発展する様相を示す。荒木貞夫陸軍大臣は「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と息まいたが、警察を所管する山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長(現在の警察庁長官に相当)は軍部の圧力に抗して一歩も譲らず、謝罪など論外、その兵士こそ逮捕起訴すべきとの意見で一致した。
内務省は「官庁の中の官庁」といわれる強大な権限を誇り、内務官僚たち矜持は高かった。事件の処理に追われていた高柳署長は疲労で倒れ入院し腎臓結石で急死した。8月24日、事件目撃者の一人であった高田善兵衛が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず、国鉄吹田操車場内で自殺、轢死体となって発見された。
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、寺内中将の友人であった白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出した。天皇が心配していることを知った陸軍は恐縮し、事件発生から5カ月目にして和解が成立した。
11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が会い、互いに詫びたあと握手して和解した。内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説だ。
事件の背景には、当時の大阪の政・財界が軍の戦争拡大方針に反対し、非協力的だったことがある。ワシントンの軍縮会議(21年)に従い陸軍部隊の第2次整理が行われた23年、陸軍省は軍縮否定の演説会を大阪で開いた。参謀本部から、後に日本の最後の陸軍大臣となった下村定、満州事変陰謀に加担する建川美次ら若手将校3人が乗り込み「軍縮はおろか、軍拡でもしなければならん時代だ」とぶち上げた。ところが、関西財界を牛耳っていた〝雷親父〟平生釟三郎などは「陸軍がそんな考えを持ってんのんやったら、こら、いよいよ軍拡に反対せないかん」と宣言。演説会が逆効果に終わり、陸軍首脳部は、大阪の第4師団に大物を据えて「意思疎通」を図ろうとする。その2番手として32年、寺内寿一を大阪方面の第四師団長に起用してにらみを利かせた。
参考文献:『実記 百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部、1987年)など
社会福祉のシンボル北市民館
18年(大正7)に富山県魚津で起こった米騒動が全国を席巻し、大阪では米騒動の収拾のために米廉売資金が集められていた。その残金を府と市で折半したそうで、府では発足したばかりの方面委員制度のために利用し、市では「中産階級以下の娯楽機関として市民館創設資金」27万7千円弱が市に指定寄附されたのを受けて、21年6月に天神橋筋6丁目交差点東側に開設されたのが大阪市立北市民館(当時は市立市民館)だ。
鉄筋コンクリート4階建てで、地域社会の福祉を図る公設セツルメントとして、初代館長志賀志那人の実践的運営により、大阪市社会事業の拠点となっていた。82年12月31日閉館を迎えるまで62年間にわたって、大阪だけでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在していた。
現在は大阪市立住まい情報センターが建ち、8~9階の「大阪くらしの今昔館」がある。1階に大阪市立北市民館の模型が展示されている。