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☆光と影の魔術師☆

レタッチのススメ?

2006-10-24 23:36:43 | デジ一眼+純正レンズ
 コメントを頂いたので、私なりにレタッチなどについて考えてみる良い機会を頂いたようだ。深く考えると、色彩やコントラストについて思いを馳せると、なかなか難しいが、すごく楽しくも感じる。
 デジタルと銀塩、レタッチと非レタッチなど、いろいろ議論はあるようだが、どこからそのような話しになってきたのだろうか?
 たとえば銀塩時代、まずフィルムの段階で色彩や調子は変わった。それにはネガ・ポジの問題がまずあるし、いやそれ以前にすでに、モノクロなんて本当はあり得ない世界のはずである。でもモノクロは非常に魅力的だし、一時はモノクロフィルムしか私も使わなかった。
 モノクロ現像の場合ですら、現像液・定着液はある程度温度設定も必要だし、半切などに引き延ばす場合は、たとえば地上と空が写っているなら、別々に秒数を変えて段階的に現像し、地上を覆い焼き、空は焼き込んだり、現像室はさながらちょっとした実験室であった。
 単純に現像するときですら、現像液に印画紙を浸けてる時間が変わると、濃度が変わってしまうのだから、写真のプロセスとして、撮影現場だけでなく、プリントされるまでにトータルしてさまざまな要因が関係しているのを経験した。

 デジタルの時代になっても、それは基本的に変わらない。例えばキヤノンのピクチャースタイルは、まるでフィルムを選ぶようにという例えは今でもベルビア調など用語があることからも、設定を変えることでまず、写真の調子を派手にしたり、その逆にすることもできる。
 フィルム時代のカラーフィルタによる補正はホワイトバランスの設定により、かつてはプロフェッショナルな技術だったが、現在では一般的な分野となった。
 ただデジタルでは赤色飽和しやすいので、紅葉をピクチャースタイル『風景』などで撮ると赤が潰れてしまったり、コントラストが強い部分では唐突に白飛びが起こったりして、フィルム時代と違う撮影様式も必要になってくる。

 夕景を見たままに撮るならば、ホワイトバランスはオートを外して太陽光にするのが一般的だ。オートのままだと、夕景は赤すぎるとカメラは自動的に判断して、逆に赤が実際より薄く表現されてしまう。さらに赤色を目立たせるなら、ホワイトバランスを曇りにしたり、キヤノンなら日陰にすると、より赤が強調される。それにさらにピクチャースタイルの風景や、オプションのトワイライトなどを使ってみると、全く違った調子というか、実際見た目の印象に近くなることもある。

 人間の眼というものは、視野が限られているし、ピントの合う領域も実際は非常に狭い。ある意味パンフォーカスというのは人間の眼には、あり得ない世界である。中心に少しピントがあって、あとはぼやけているのが、人間の眼だ。
 たとえば空を見つめた場合、それに最適化されて人間の眼球の絞りも働く。その時下を向いて暗い部分を見つめると、絞りは開いて、その場所に最適化された映像を見ることになる。たとえばカメラを向けて空と地上(海面)を写した場合、本来なら個々に最適化されるべきものが、両方を同時にカメラに記録することになるので、当然その設定はどちらかに偏ることになる。空をメインに撮影条件を決めれば地上(海面)は実際の現場の印象より暗くなるので、それはあとでれレタッチなりして補整することで、眼にみた印象に戻せることになる。

 ゆえに上記のようなレタッチおよび現場での設定の変更は、元の景色に近づけるという目的に叶うことになる。


 さらに深くつきつめると、人間が見ている可視光線ってなんだろう?という疑問が出てくる。色は光の周波数で決まるので、たとえば紫外線などは人間の眼に見えない光線ということになる。ヒトが見ている世界と同じ世界を、他の動物が見ているわけではないのである。
 ではこの世界の真実の色って何?ということになる・・・・難しいテーマだ。よってさらに考えてみよう。

 ヒトの眼球の屈折率の最大の要素は角膜、そしてそれがレンズで調節されてピントを網膜に結ぶ。網膜は球形の裏面に相当する。その網膜の個々の細胞の中に、色覚を受容体である錐状体と、明暗の受容体である桿状体が存在し、そしてその分布は網膜の部位によって違ってくるのだ。そしてその検知方式は基本的に化学反応近いが、その情報は個々の神経線維につたわり、それが束になって視神経の太い神経線維束として、脳内に伝わる。そして脳に伝わった情報が脳内の神経細胞の集合体によって、色や形として認知される。
 難しい用語は割愛して理解してもらえればいいが、要するに人間の映像の関知は、網膜面では銀塩写真的、そしてそれ以降は極めてデジタル的に処理されているということだ。

 ただし人間の場合、色や形を認識する際に、心や感情がその印象をかなり支配する。例えば赤は暖かく感じるし、青は冷たく感じたりする。そして形の認識まで入れればその人の人生での経験などが大きく心理条件を左右するので、あるものは懐かしく感じたり、またあるものは嬉しく感じたりする。

 要するに人間の感じる色や風景、つまり写真としてできあがったものは、所詮本物の色や形というわけではなく、この世の物体をヒトという生物としての感覚器で感じられる範囲の中で見ているのである。
 そう突き詰めて書いてしまうと、身も蓋もない気分になるかもしれない。あるカメラメーカーの色彩の専門家はかつて、色を決定していくのは、最終的には好き・嫌いで判断するしかない、というような発言をしている。

 ヒトとしての感覚の限界はあれ、人間は極めて情緒的な生物だ。写真というものを見るとき、そこに意味を求めたり、自分の経験や思い出や希望なども織り交ぜて、『心』として見ようとするのである。要するに、色彩や映像に心の画像エンジンが働くということだ。だから撮影者も心の表現として、カメラの設定を変えたり、あとでレタッチすることで、自分の心情をそこに込めることができる。見るものもそれで、何かを感じ取ることができる。

 カメラは道具であり、感情は持ち合わせていない。カメラ内のコンピュータが、膨大な情報からはじき出した数値を画像として描出するにすぎない。それは実際の光景の無限の選択肢のひとつに過ぎない。画像に心を込めるのは、人間の役割だ。そのためにカメラに設定を施したり、レタッチするのは、心の表現として当然のことといえよう。
コメント (2)
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