アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑上0045  江戸時代 佐賀鍋島藩屋敷跡

2015年04月26日 16時15分11秒 | 幕末・明治維新前後

  幕末の佐賀藩は,藩財政の窮乏と英国艦船の来訪等により藩政改革の必要に迫られ,

藩主鍋島斉正(閑叟,1814~71)は財政強化と軍事力の再編に尽力した。

佐賀藩は雄藩として公武合体派の指導的な役割を果たし,

斉正は福井藩主松平春岳(慶永)らとともに一橋慶喜(1837~1913)を擁立して

改革派藩主連合の一翼を担った。

佐賀鍋島藩の藩邸ははじめ堺町通四条下るにあったが,

幕末にいたりこの地に移された。

幕末藩士  佐賀藩

  • 鍋島直正(閑叟、藩主)
  • 大隈重信
  • 江藤新平
  • 副島種臣
  • 大木喬任
  • 佐野常民
  • 島義勇 →以上7人は、佐賀の七賢人
  • 鍋島直大(藩主。直正の子)
  • 鍋島茂昌
  • 鍋島直彬
  • 鍋島直虎
  • 多久茂族(藩士)
  • 遠藤直正(家老)
  • 石井忠躬
  • 石井忠亮
  • 石井松堂
  • 石井貞興
  • 石井富之助
  • 伊東玄朴
  • 枝吉神陽
  • 朝倉尚武
  • 山口尚芳
  • 中牟田倉之助

 

堺町四条下ル 鍋島藩屋敷跡 ➡  石碑 佐賀鍋島藩屋敷跡 

石碑 前回の記事 ➔ 石碑上0044  江戸時代 唐津小笠原藩邸址  

 

 


石碑上0043  聚楽第 (秀吉の造った城)  西堀の跡

2015年04月26日 13時06分48秒 | 聚楽第

わずか8年間しか存在しなかった 完全に破壊された  東から西を向いて撮影

平安時代の大内裏と重なっています

 

聚楽第 本丸西濠跡

 

かつてこの一帯には、平安時代に平安宮(大内裏)があったことから「内野」と呼ばれてした。安土桃山時代に平安宮跡北東部分に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。

 

秀吉は羽柴秀吉と名乗っていた天正14年(1586)に聚楽第の築城を開始し翌15年に正室の北の政所(おね) 母の大政所とともに大阪城から移り住み政務を執るようになった。その後秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。

 

この城は幅20mから43m 深さ6mから8mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ白壁の土塀や多重塔で囲まれた内側に檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓がそびえるじゅんらん豪華な城郭であった。城は内郭と外郭の大きく2つに分かれ、内郭はさらに本丸 南二の丸 北の丸 西の丸に分かれる

 

これまでの考古学的な調査によりこの石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ本丸の東側と南側の濠 南二の丸の南側と西側の濠 さらに北の丸の北濠と石垣などが明らかにされた。特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し国の重要文化財に指定されている

 

天正16年(1588)には後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い築城者である秀吉の命により文禄4年(1595)に破却され、わずか9年の短い歴史を閉じている

 

図の左 聚楽第石碑 となっている所が現在地

  

石碑 前回の記事 ➡  石碑右0042  陶工 野々村仁清 窯址 

 

 

 

 


石碑右0042  陶工 野々村仁清 窯址

2015年04月26日 06時22分01秒 | 史跡・旧跡

 野々村仁清(生没年未詳)は,丹波国北桑田郡野々村(現京都府美山町)出身といわれています。名は清右衛門。瀬戸で修業し,京都粟田口に出て製作を始め、正保年間(1644~48)仁和寺門前に御室窯を開き,茶匠金森宗和の指導で茶器を焼き,轆轤成形と色絵付に卓越した才能を発揮した。仁和寺門跡から「仁」の字を与えられ仁清と号した。ここは、窯址

 

 

大正4年11月 京都教育会 建立

 関連記事  ➡  琳派400年  仁清・乾山の遺物・遺跡の展示  

 石碑 前回の記事 ➡  石碑中0041  奨学院 平安時代  

 

 


寺院上0102  浄福寺 赤門 天狗が主役  その四・最終

2015年04月26日 05時56分56秒 | 寺院

本堂、方丈、書院

日本最古の 違法建築と云われています 外から見れば2つの建物ですが、中に入ると1つの建物になっています

 

護法堂  天狗が登場

 

 

 

 

 

狛犬です

 

別棟に 沢山の絵馬が奉納されていました

 

 

手水舎

 

天狗が降り立った木

 

赤門 寺内より

 

赤門  外から

 

 

 

寺院上0102 浄福寺

恵照山と号し、浄土宗に属する。1つには村雲寺ともいう。はじめ天台宗で延暦年中(782~802)、賢憬大僧都の開創と伝えられ当時25大寺の1つに数えられていた。たびたび火災にあい、建治2年(1276)後宇多天皇の命によって大永5年(1525)後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、のち知恩院に属した。この地に移転したのは元和元年(1615)のことで現堂宇は享保18年(1733)の再建ひよなるものである。本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、釈迦堂は三国伝来と伝える釈迦仏を安置する。寺宝には、25菩薩来迎図(鎌倉時代・重要文化財)二幅、土佐光信筆十王像(室町時代、重要文化財)十幅などがある。また境内の墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿、殿上人の墓が多い。京都市

 関連記事  ➡ 浄福寺 その1

           天狗・太郎坊の井戸   

寺院 前回の記事  ➡ 

寺院上0101 浄福寺 赤門、違法建築 泣き龍、洛陽48願所で有名です その参 

 

  


まち歩き上0103  一条戻橋の話  (七)  和田 新五郎 京で有名な橋 

2015年04月26日 00時16分02秒 | まち歩き

一条戻橋(いちじょう もどりばし) です

 

 

細川晴元により 三好長慶の家臣 和田新五郎はここで 

残酷にも鋸挽き(のこぎりびき)にされた

1544年 8月 29日

 

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0102  一条戻橋の話  (六) 清盛の妻・二位ノ禅尼が清盛の娘・寂光院・賢礼門院出産を占う  京で有名な橋