江戸で お犬さまといわれた将軍、生類憐みの令を出した将軍の母親が玉の輿ことお玉さん・・京都出身です
3代将軍 家光の妻となり家光の4男 綱吉を産む。
家光の死後 桂昌院と名乗る。
徳川五代将軍綱吉公御生母 、3代将軍 家光の妻
昭和8年 建立 と記されています
桂昌院殿 御生家 菩提寺
堀川出水西入ルに八百屋 仁左衛門に2人の娘がいた、寛永16年(1639年)8月仁左衛門が亡くなると仁左衛門の妻は本庄宗利に後妻になった。この時の連れ子がお玉であった。・・・・略・・・
将軍の母親を送り出した京都では「どえらい出世だ」と桂昌院が天下一の果報者にまつりあげられ「私は親戚のものだ」「近所に住んでいた」「一緒に遊んだ」などと話題をさらったらしい。なかでも幸運をつかんだのは、仁左衛門の菩提寺である真敬寺。桂昌院はこの寺を優遇し、おりにふれて金銭を送っていた。寺は豊かになった。寺の記録によると、当時の住職が桂昌院に感謝状を書いている。また、宝永2年(1705年)6月22日桂昌院が76歳で亡くなったとき、4年後 綱吉が亡くなった時住職がわざわざ江戸へ招かれ、葬儀の役を仰せつけられている。桂昌院の墓は東京にあるが、位牌は別格として同寺本尊のそばに安置されている。桂昌院から送られた打掛がある。寺紋も葵の紋が許された。また、同寺では桂昌院から送られた゛9つ目゛寺紋も併用している。
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まち歩きをしていると 表札の横に次のような 遺族の家を 金属のプレートが貼られているのを見受けます
これは、太平洋戦争で戦死された家に貼られたものです
亡くなったほとんどの人は20歳台でした
日本の戦死者は 300万人以上といわれています
戦後 前回の記事 ➡ 戦後001 1945年 パンプキン爆弾 被弾地 あなたの都市は
一条戻橋(いちじょう もどりばし) です
やがて 罪人のさらし場になった
秀吉の朝鮮出兵に異を唱えた薩摩藩主の島津歳久が処刑され、
歳久の首が戻橋にさらされた、
たまたま、京都にいた島津家の親戚の人が歳久の首を盗み取り、
浄福寺で供養をしたとのことです。
以後、浄福寺と島津家の結びつきは強くなる。
幕末、薩摩藩邸に宿泊出来なかった藩士は浄福寺に宿泊した。
中には暴れたりして、柱に刀傷をつけている。
その刀傷は現在も本堂等に残っているといわれています
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