当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたる「拾芥抄」によれば、
皇太子の事務を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)だった。
平安後期の承保4年(1077)9月、春宮権亮源師忠(みなもとのもろただ)の母が
住んでいたことが分かっている。(「水左記」)
応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、
天下統一を進める豊臣秀吉によって近世都市として甦った。
その中心は、居城聚楽第(大名屋敷地区)である。
当地付近もその範囲に含まれ、
北国大名の上杉景勝、およびその重臣 直江兼続の屋敷が営まれたと思われる。
直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたるが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇された。
「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、
大宝寺千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、
洛中の同屋敷は確実に存在した。
その位置は不明であるが、江戸中期の宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」は、
当地の南隣の「直江町」を直江屋敷跡と伝承する。
江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町はもと「なおい町」だった。
兼続屋敷跡の重要参考地といえる。
上杉景勝屋敷は天正16年(1588)に得た一条戻橋西入ルの地が知られるが、
「輝元公上洛日記」によると、
同じ頃、聚楽第の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、
左側には上杉屋敷もあった。これは一条戻橋ではありえない。
現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、
その東隣地が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定される。
すると先にふれた「直江町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づかれる。
景勝・兼続の深い関係を鑑みれば十分ありえることだろう
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一条戻橋(いちじょう もどりばし) です
江戸時代 12月20日は 果ての20日(はつか)といわれて、罪人は市中引き回しの途中 ここ、一条戻橋に立ち寄り、橋の上で花と餅を供え、役人から
「ふたたび、人間に生まれてくるときは、真人間になってこい」といわれた。
そして、粟田口や西の刑場に向かった。
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