アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き上0109  市街地にある酒造会社

2015年04月30日 10時47分00秒 | まち歩き

家族の中から俳優が出ています

 

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き上0108   一条戻橋の話  (十一) 罪人 京で有名な橋  

 

 

 


護王神社の狛犬は イノシシです  こま038  こま039  こま040

2015年04月30日 09時45分15秒 | 狛犬

こま038

鳥居前のイノシシです

 

こま039

拝殿前のイノシシです

 

 

こま040

末社の狛犬 

 

 

  

前回記事 ➡  晴明神社の狛犬  こま036  こま037

 


石碑上0047  聚楽第 上杉家・直江家屋敷跡

2015年04月30日 08時39分37秒 | 聚楽第

 

当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたる「拾芥抄」によれば、

皇太子の事務を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)だった。

平安後期の承保4年(1077)9月、春宮権亮源師忠(みなもとのもろただ)の母が

住んでいたことが分かっている。(「水左記」)

 応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、

天下統一を進める豊臣秀吉によって近世都市として甦った。

その中心は、居城聚楽第(大名屋敷地区)である。

当地付近もその範囲に含まれ、

北国大名の上杉景勝、およびその重臣 直江兼続の屋敷が営まれたと思われる。

直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたるが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇された。

「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、

大宝寺千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、

洛中の同屋敷は確実に存在した。

その位置は不明であるが、江戸中期の宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」は、

当地の南隣の「直江町」を直江屋敷跡と伝承する。

江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町はもと「なおい町」だった。

兼続屋敷跡の重要参考地といえる。

上杉景勝屋敷は天正16年(1588)に得た一条戻橋西入ルの地が知られるが、

「輝元公上洛日記」によると、

同じ頃、聚楽第の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、

左側には上杉屋敷もあった。これは一条戻橋ではありえない。

現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、

その東隣地が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定される。

すると先にふれた「直江町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づかれる。

景勝・兼続の深い関係を鑑みれば十分ありえることだろう

 

 関連記事 ➡  石碑上0038  戦国時代の終わり 京都の聚楽第 武家屋敷 上杉家址  説明追加  

石碑 前回の記事 ➡  石碑上0046  日本盲啞学校発祥地  

 

 

 


まち歩き上0108   一条戻橋の話  (十一) 罪人 京で有名な橋 

2015年04月30日 06時16分08秒 | まち歩き

一条戻橋(いちじょう もどりばし) です

 

江戸時代 12月20日は 果ての20日(はつか)といわれて、罪人は市中引き回しの途中 ここ、一条戻橋に立ち寄り、橋の上で花と餅を供え、役人から

「ふたたび、人間に生まれてくるときは、真人間になってこい」といわれた。

そして、粟田口西の刑場に向かった。

 

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き上0107  この石垣の石は・・・・