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江戸初期の漢学者、伊藤仁斎の住宅で、仁斎の学問にちなみ古義堂と称する。
現在の建物は明治23年に遺構をもって再建したもので、2階建て、
土蔵造りの書庫は仁斎在世当時のものである。
仁斎は寛永4年(1627)ここに生まれた。
父了室は篤学の人であり、母は連歌師里村紹巴の孫にあたる。
仁斎は初め朱子学を修めたが、後にこれを排して古義堂を唱え、
寛文2年(1662)から宝永2年(1705)79歳で没するまでの約40年間、
私塾を開き教授に努めたので、
仁斎、東涯の学派を堀川学派、古義学派と呼んで名高く、
全国各地から堀川の流れを慕って学徒はここに集まった。
子孫は永く学派を伝え、
寛文2年(1662)から明治39年(1906)に至るまで実に244年に及んだ。
墓所は 二尊院
儒者伊藤仁斎(1627~1705)は,自邸に古義堂と名付けた塾を開き,
上層町衆の子弟や武士などを対象に講義した。
古義堂は堀川学派の拠点となり,代々伊藤家の家塾として存続した。
この石標はその邸宅と塾跡を示すものである。
大正11年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,
現在は「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国指定史跡
西 史蹟伊藤仁斎宅古義堂阯並書庫
南 史蹟名勝天然紀念物保存法二依リ
大正十一年三月内務大臣指定
北 大正十三年九月建設
蔵の一部が写っています 当時のままのです
伊藤仁斎手植えの松といわれています
古義堂の扁額
伊藤仁斎が寛文2年(1662)に創立した私塾の看板
この扁額は、元文3年(1738)に仁斎の5男の蘭嵎(らんぐう)が篆書(てんしょ)したものが
天明の大火で消失したため、文化元年(1804)に花山院愛徳の書によりつくられたもの。
古義堂の史跡は現在の建物は住居に改築されているが、二階建ての蔵だけは当時のもの
京都学校歴史博物館