五條天神
祭神として、大己貴命・少彦名命・天照大神を祀る。
社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当たり、
大和国宇陀郡から天神を勧請したのが当社の始まりといわれる。
当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めた。
創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、
元治元年(1864)の蛤御門の変で社殿は焼失した。
現在の社殿は最近の再建です。
当社は古来、医薬・禁厭(きんえん・まじない)の神として広く崇敬され、
今なお節分には、厄除け祈願のために参詣する人が多い。
宝船授与がある。例祭は毎年5月10日に行われる。氏子祭は10月10日に行われる。
義経・弁慶出会いの場所
五條天神社は別名天使社ともいわれ、六角堂とともに延暦遷都以前からの神社で社地を一度も変えていない。
安倍晴明もここの神の感応を得たという逸話がある。
「今昔物語」 「徒然草」などにも記載が認められます。
徒然草の記載 現代訳 203段
「勅靱をこうむった家に靱(ゆぎ)をかける作法は、今では知っている人がまるでない。
天子の御病気のおん時とか疫病の流行する時には、五条の天神に靱をお掛けになる。・・・・」
とあります。内容はよくわかりませんが・・・
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特に「義経記」や能楽「橋弁慶」により牛若丸と弁慶の出会いが当社の近辺だったと記されています。
この五條天神に丑刻詣りをした弁慶が笛を吹きつつ歩く稚児姿の牛若丸を見つけ
その腰の黄金造りの太刀を奪いにかかる所から雨者の争闘が始まる。
敗北した弁慶が義経の家来となる機縁は当社に由来する。
また、義経が鬼一法眼の高弟・湛海の首をとったところと、「義経記」にある
童謡の「五條橋」は鴨川に架かっていた大橋(現松原橋の位置)だが
当社の東側に流れていた西洞院川の橋だという伝説がある。
秀吉によって橋が移されてから
平安朝以来の「五條大路の名が消え東方の松並木から松原通り」
となって現在に至る。(郷土史)
一寸法師
田舎から都に出てきて奉公先を探し出し、清水の山で松葉を拾う仕事をさせられていた男がいた。
男は異様に小さく、背丈は30センチしかなかった。
ある日、男が清水寺にお参りに行くと、そこに身分の高い女性がいて一目惚れし
何としても結婚したいと思った。男は和歌に自分の思いを託して女性に贈った。
はじめは乗り気でなかった女性もやがてその男の和歌の見事さに感心し、
二人は結婚した。夫婦仲は睦まじく、幸せな日々を過ごし、子供にも恵まれた。
やがて男が亡くなると、「五條天神」の神として祀られることになった。
この男こそ一寸法師で、男が祀られた「五條天神社」はもともと「天使の宮」と呼ばれていました。
石鳥居 昭和7年12月 建立
社号標 明治37年12月 建立
手水舎
境内の桜の木
本殿
本殿の扁額
狛犬
高辻西洞院町 の町名の記された燈籠
謝恩碑
明治41年12月
醫祖
牛像
福部神社 金毘羅神社
大国主神社 白太夫神社
稲荷大明神
猿田彦神社
弁財天
皇國醫祖禮・・・
筑紫天満宮 明治28年9月 建立
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北参道
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