元々この地には、彦火火出尊を祭神とする愛宕神社が町内北東にあり、
「火伏せの社」として信仰されてきた。
寛政の初め頃、藤原北家閑院流風早家の邸内に鎮座していた菅原道真の像を合祀した。
その後、この地域は風早町と呼ばれ、愛宕神社もいつしか火尊天満宮と呼ばれるようになった
丹波国多紀郡市原村(現兵庫県篠山市)の農民清兵衛を義民として顕彰する碑。
碑文によれば,多紀郡の農民は冬期には灘で杜氏の出稼ぎをしていたが,
篠山藩が出稼ぎを禁止したため,清兵衛は江戸で藩主に直訴しこの禁令を撤回させたと記す。
義民市原清兵衛君碑 碑文の大意
丹波国多紀郡は冬には雪が多く農作ができない。そこで農民はみな摂津国灘の酒造家に杜氏働きに出て,
稼いで帰郷し家計を助けている。
このため多紀郡は丹波国の他郡よりも豊かであるとみなされている。
こうした慣習の由来するところは古い。
この慣習は市原清兵衛の正義感に負うところが多いのである。
大名青山家が(丹波国亀山から)篠山へ移されると,宝暦天明のころ毎年不作が続いた。
篠山藩では,農民が出稼ぎに行き農業をおろそかにするからこうなるのだと決めつけ,
農民が外へ働きに出ることを禁じた。農民は業を失い騒然となった。
そして監物河原に集まり協議を始め何が起きるか予測できない事態になった。
清兵衛は市原村の人であったが,不測の事態を恐れ軽挙を戒めた。
そこで清兵衛は決死の覚悟で何度も藩庁へ哀願におもむいた。
その時,青山侯は幕府の老中をつとめ江戸に滞在していた。
そこで清兵衛は決心し,訴状をふところにして江戸へ行き,青山侯の登城を待ち受けて直訴した。
侯は禁令のことを始めて知り,ただちに撤回させたので農民も納得したのである。
しかし清兵衛は直訴の罪で篠山へ送り返された。篠山の獄につながれること数年で釈放された。
そのころ,篠山藩では年貢米一石について五升余計に農民から徴収していた。
このため農民は苦しめられていた。清兵衛はこのことをまた直訴しようと郷里を出発したが,行方不明になった。
役人に殺されたという人もいる。
当時は藩主をはばかり,だれも清兵衛のことを口にしなかったので,清兵衛の事跡はわからなくなってしまった。
東京の柴田幸三郎さんは気骨の人である。
酒屋を営み灘で作った酒を京都で販売することを長年もっぱらにして,気骨あるところを人には見せなかった。
この人は清兵衛の義挙が伝えられていないことを惜しみ,
土地の故老に教えてもらいその詳細を知ったのである。
そこで,灘の酒造業者が繁昌しているのは多紀郡の人々のおかげである。
その根源は清兵衛の功績によるところが大きい。
その人徳と事績をあきらかにせずにはおられようかと考えた。そこで同業者から募金し,
石碑を建てて後世に伝えようと,わたし(筆者藤沢南岳)に銘を依頼した次第である。【銘略
嵐瑞澂『市原清兵衛 義民伝』(1961年著者自刊)によれば,
この碑文は地元の伝承を記したものであり事実とはみとめがたい点が多い。
地元にのこされた古文書等により調査し,
(1)清兵衛が江戸で直訴したのは寛政12(1800)年12月14日のことであり,
碑文に記すような「宝暦天明の際」ではない。
(2)出稼ぎ禁止令ではなく,資格や期限の制限令である。
(3)監物河原に集まり気勢をあげたのは明和8年の多紀郡大一揆の時のことである。
以上3点が主要な誤りだという。
同書によれば清兵衛は市原村の小農で,文政3(1820)年ごろに64歳で没したと推測している。
建碑者の柴田幸三郎は東京で「金釜正宗」という銘柄の酒を販売した,
いわば立志伝上の人物。
奥田楽々斎『多紀郷土史考』(1958年多紀郷土史刊行会刊)によれば,
最初篠山城近傍の王地公園に建立しようとしたが,
地元の反対にあい,酒造神である京都松尾大社に建立したという
大正八年十一月建之 浪華 ・ 藤澤南岳撰 、東京・ 柴田 魯書、・東京群鶴玉鐫