アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

ずいき祭 ポスター 北野天満宮 10月1日~

2015年08月24日 23時07分09秒 | まち歩き

御旅所から天満宮まで道順

 

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北野廃寺跡  京都市内で唯一の飛鳥時代の遺跡

2015年08月24日 11時14分41秒 | 石碑

平安京大内裏の西北隅、一条大路の北にあたる。

昭和11年(1936)7月 西大路通の市電敷設工事中に

飛鳥時代から平安時代におよぶ多数の古瓦や塑像片が出土した。

その後、白鳳・奈良時代の8基以上の瓦窯址や平安前期の建物址が見つかった。

出土瓦中に「鵤(いかるが)堂」 、「野寺」 と墨書した土器が出てきた。

京都市内で飛鳥時代の寺院址はここだけです

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高松神明神社  平清盛・源義朝が保元の乱のときに集まった陣地 その地を訪れました

2015年08月24日 08時52分08秒 | 神社

 

高松神明神社

保元の乱ゆかりの地として由緒ある社です。

醍醐天皇の皇子の邸宅に祀られていた鎮守社と伝わり、治安元年(1021)に焼失した。

その後再興され、、

保元の乱にはここが内裏方の作戦本部となり、平清盛源義朝の軍勢が続々とつめかけた。

このとき、少納言信西が軍勢を前に、新院(崇徳上皇)方に宣戦布告を出したのもここです。

対抗する新院の武士たちは、御池通を隔てて、その北にある東三条殿に立てこもり、

しきりに高松内裏を偵察していたという。信西の屋敷もここの近くにあった。

 

明治の神仏分離により高松神明神社と改名、

村社になる。開運・厄除けの神明さんとして、庶民の信仰を集めています。

 

 

参道

 

社号標  明治時代の建立

 

史蹟 石碑 高松殿址

大正4年11月建立 御大典  京都教育会

久寿2年(1155)7月、後白河天皇はここで即位し、保元2年(1157)まで皇居とされたところです。

高松内裏と称した。後白河天皇の里内裏になった

 

正面に本殿

 

水琴窟 いい音色でした

 

本殿 扁額

春日神社 天照皇大神宮  八幡神社

 

本殿

 

 

神明地蔵尊

神社の境内にお地蔵さんを祀ることはめったにないこと。ここは、例外。神明地蔵と呼ばれています。

明治26年(1893)、本殿の西側に新しく地蔵堂を建てて祀られるようになった。

この地蔵尊は戦国時代の真田幸村を葬った高野山麓の九度山(和歌山県九度山町)の

善名称院(真田庵)に毘沙門天とともに安置されていた二体の地蔵尊のうちの一体で、

寛政6年(1794)に移したものと伝わります。

この由縁により、幸村にあやかって「幸村の智恵の地蔵尊」として崇められた。

この地蔵尊は石造で形は小さいが大変美しい。

堂前の台石がピカピカに輝いている。

 

 

本殿から 参道を見る

 




平成28年1月6日 撮影


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権雪大明神  はじめて知りました

2015年08月24日 08時16分16秒 | 町内の小さな祠

 12月第1日曜日に火焚祭が行われます。


秋の収穫・五穀豊穣・厄除け・地域の安全などを願い、

護摩木に書かれた諸々の願いを祈願する行事です。

権雪大明神がある地域は、清滝不動院さんと縁があります

 

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