最近は進物用に砂糖は使われなくなりました
砂糖が貴重な時代でした 1965年くらいまででしょうか
近頃は 糖分の控え目といわれて砂糖を
進物にしなくなっています
最近は進物用に砂糖は使われなくなりました
砂糖が貴重な時代でした 1965年くらいまででしょうか
近頃は 糖分の控え目といわれて砂糖を
進物にしなくなっています
この地は,室町幕府三代将軍足利義満(1358~1408)が造営した将軍家の邸宅跡で幕府が置かれた。
北は上立売通,南は今出川通,東は烏丸通,西は室町通に囲まれた東西一町,
南北二町の規模であった。
仙洞御所や公家邸宅の跡地に造営され,
邸内の樹木苑地が美しかったことから花の御所とも称された。
応仁元(1467)年,戦火で焼失,文明年間(1469~87)に再建したが再び焼失した
義政・日野富子が暮らした
従是東北 足利将軍室町第址
大正四年十一月建之 大正御大典と同年
石碑より 東方向を見る 京都御所・御苑がすぐ近く
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二條家邸跡
江戸時代、現在の京都御苑の天皇の居所である内裏(京都御所)を中心に
宮家や公家が集住いる空間(公家町)でした。
今出川通の北側にも屋敷が並び、
当地(同支社女子大学東半分)には二條家が広大な屋敷地を構えていました。
二條家は藤原氏を祖とし「五摂家」の1つとして朝廷内では格式の高い家柄にあたります。
ここに展示した礎石は、女子大学構内の発掘調査(2007年度)で出土したもので、
かつてあった二條家邸の存在を今に伝える貴重な遺産です。
当時の情景に思いを馳せながら、
京都公家社会の息吹を少しでも感じていただけると幸いです。説明板より
幕末期の二條家当主である二條斉敬(1816~1878)は、孝明天皇の関白、明治天皇の摂政となり、
朝廷での重要な舵取りを担った。
彼を訪ねて会津藩主松平容保を始め、将軍・諸大名が数多く屋敷に通っている。
移築した井戸は幕末動乱の中、歴史上重要な二條家屋敷にあった遺構として、
その当時をうかがい知る好資料といえる。
二條家邸(江戸時代中期)検出の地下通路
2014年度の新校舎建設に伴う発掘調査で、江戸時代中期の石組の地下式通路を数基確認し、
その1つを移築した。
近世における屋敷図等には「下々道」と記載されるものであり、
この遺構の上部には渡廊下が設置されていたと推測される。
数基の地下式通路は渡り廊下の位置を示しており、
複数の建物が渡り廊下によって接続される上級の公家屋敷であったことがわかる。
二條家が公家の筆頭五摂家であることを感じさせる考古学的に貴重で重要な建築遺構である。
井戸の検出
2014年度の発掘調査で検出された井戸。幕末期の二條家邸で構築された井戸数基のうち1基を移築した。
井戸の深さは、約2.5mであるが、安全を考慮し60㎝に留めて保存を行った。
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上京区役所前に道標
元は室町今出川東北角に立てられた
2015年1月に上京区役所が新築開所したときに現在地に移され
南 左 天満宮
東 右 上かも
西 すく 東山
安政5年弥生(1858年)
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