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太閤地蔵
像の高さは2メートル、花崗岩製、火災にかかったようで表面が磨滅し、
首が取れたのを継いだためやや不釣り合いな形になっている。
近年、顔の部分を彫りなおした、地蔵なのか阿弥陀像なのかよくわからない。
書物には「石地蔵」と明記されている。地域では「子安観音」として親しまれている。
この石地蔵はひとりでに動き出すという稀代の霊仏であるといわれた。
太閤(豊臣秀吉)が「それは珍しいことだ。
是非、己が屋敷(聚楽第)の庭内に移したいものだ。」といって、
北白川から屋敷へ移すことになった。ところが、夜中になると、
この石仏は無気味なうめき声を出し、「白川へ帰りたい」としきりに鳴動するので、
さすがの太閤も困り果てて、「仏には勝てぬ」といって、ついに元の場所に返したという。
他の古文書にも、「希代の大像にして、いずれの代の作といふ事を知らず云々」
と記されている。しかし、鎌倉時代の作であることには間違いない。
子安観世音
ここは昔から白川の村の入り口に当たり、東は山を越えて近江へ向かい、
洛中へは斜めに荒神口に通じていた。
また、出町から百万遍を経て浄土寺へ向かう細道との交差点でもあった。
この堂々たる鎌倉期の石仏は「拾遺都名所図会」に希代の大像として
描かれている阿弥陀像であるが長い年月の間にかなりの風化が見られる。
古来、子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る。
御詠歌
みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音
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鴨川
左の橋は 出町橋
右の橋は 河合橋
森の奥は 下鴨神社へと続く
亀石を渡る人たち
右の川は 高野川
賀茂大橋より 南方面(三条大橋)を見る
平成27年8月12日撮影
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本阿弥光悦京屋敷跡
この地は足利時代初期より、刀剣の研ぎ、拭ひ、目利きのいわゆる三事を以て、
世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として、「本阿弥辻子」の名を今に遺している。
その本阿弥家歴代の中にあって、日本の芸術史上に著しい光彩を放っている光悦は、
永禄元年(1558)実にこの處に呱々の声をあげたのである。
光悦はその家業の三事において、達人の名をほしいままにしたが、
彼の天成の高雅な芸術的人間性は、特に書道に、かつ茶道に、
気韻あふるる富麗清逸の美的境地を聞き、天下の数奇者の敬仰をあつめた。
光悦は元和元年(1615) 58歳、徳川家康から洛北鷹峰に地を与えられ、
寛永14年(1637)、その80歳の生涯を終ふるまでの晩年を、
鷹峰に風流の生を送ったが、
彼の壮んなりし58年の前半生は、ほかならぬ此の地にあって、
家業にいそしむと共に、芸に遊び風月を楽しむ日常を過ごしたのであった。
上京区文化振興会書
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