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2015年9月4日の記事
七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと)
この地は、平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝をはじめ、
その一族・子弟・子孫が長く居住して彫刻に励んだ「仏所」のあった所で、
「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。
定朝は、平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、
「和様」と呼ばれる優れた彫刻様式を完成したほか、
卓越した技術によって僧綱位の法橋を与えられ、
仏師の共同組織として仏所の制度を整えるなど、仏師の社会的地位の向上に努めた。
これらのことから、定朝は我が国における仏師の祖と仰がれている。
鎌倉時代に入って、この部所から運慶・湛慶・快慶らが相次いで現れ、
剛健な、また写実的な多くの名作を世に送った。
しかし、室町時代に入って、彫刻は全体としてふるわず、
この仏所も21代康正のとき四条烏丸に移転した。
その後、幕末の兵乱で火災に遭い、仏所の遺構は完全に失われた。(京都市 駒札)
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猿が います
平成28年10月12日 以下の2枚の画像 追加
正行院は、天文7年(1538)に円誉上人(1496~1584)が、開山した寺である。円誉上人は、京都北山の中川の里で念仏修行の時、庵に遊びに来る多くの猿たちの首に「南無阿弥陀仏」と書いた名号を結びつけて、お守りにせよと授けられた。お守りを首にかけた猿は、ある日漁師に命を狙われたが、そのお守りのご利益で、猿の命は救われた。
猿の命を狙った猟師は、そうした奇縁から改心して正行院で出家して僧となり、今まで殺生してきた動物たちの供養をして生涯を終えた。
その話が都に広まり、正行院は「猿寺」と呼ばれるようになった。寺には、八百頭の猿の人形が飾られており、その中には、お釈迦さまが説きになった「八正道」を猿が体で表した。
「見ざる、思わざる、言わざる、為さざる、合掌ざる、持たざる、忘れざる、聞かざる」
の八猿がある。
京都市
正行院(しょうぎょういん)
猿寺ともいう。天文年間(1532~1555)、
若山正行が円誉上人(1496~1584)を開山に請じて建立した浄土宗捨世派の寺。
亀通山と号する。寺伝では、円誉上人は学徳兼備の名僧であったが、
応仁の乱の戦乱に荒れ果てた洛中を避け、
北山の御室や栂ノ尾・中川あたりの山中に庵をむすんで念仏修行を行い
猿や鹿の獣にまで南無阿弥陀仏の名号を小紙片に書き、災難除けのお守りとして与えたという。
その後、正行院に移って教化中、完又十郎という猟師は、
御室の山中で見つけた猿が上人自筆の名号を持っていたのを見て、
殺生を働く身を深く恥じ、上人を訪ねて弟子となり、後には熱心な念仏信者になったという。
11月6日が開山忌で「猿寺縁起」が紙芝居で上演される。
このような伝承によって寺を「猿寺」といい、また悪事災難去る(猿)の寺として崇敬された。
本堂には円誉上人坐像の膝上には、高さ15センチの猿像がある。
墓地には、幕末産科の名医 水原三折、
寺子屋で漢学書道を教えた「横槌先生」、
文楽三味線の4代目豊沢文造、佐川田昌俊の子孫の墓がある。
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