うぉぉぉぉーーーーーーーーーっ うぉぉぉぉーーーーーーーーーーー
ひとり、ひとり 声に 違いがあります
最近は3から4人でされておられるようです。
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浄土真宗本願寺派
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坊城通り 下京区 夷馬場町(えびすのばんばちょう)・第一 無名
南図子
下京区 西酢屋町(にしすやちょう) ライオンズ
壬生川通り 下京区 夷馬場町(えびすばんばちょう)・東 無名
北小路通り
壬生川通り 下京区 夷馬場町(えびすばんばちょう)・東 無名
壬生川通り 下京区 夷馬場町(えびすばんばちょう)・東 無名
下京区 二人司町(ににんつかさちょう) ライオンズ
壬生川通り 下京区 夷馬場町(えびすばんばちょう)・東 無名
下京区 二人司町(ににんつかさちょう) ライオンズ
下京区 二人司町(ににんつかさちょう) ライオンズ
平清盛公 御手植楠
楠社
社前 楠の大樹 平清盛公御手植と伝えられる御神木
社伝によると、宝亀3年(772)、唐から渡来し天王寺に居住した威光上人が、
紀州熊野を詣でた際、迷い苦しむ人々を救済しようと、
御分霊若一王子の御神体を背負って旅立ち、
当地の古堂で一夜をあかしたところ御神託を授かり、堂中に安置した。
その後、当地は荒廃したが、平清盛公が六波羅に在住していた頃には、
当地は浅水の森と称し、風光明媚な土地として名を馳せており、
平清盛公は、当地に西八条御所と称される別邸を造営した。
仁安元年(1166)、平清盛公が熊野詣でをされた際に、
「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ」との御神託を授かった。
帰京後、邸内を探したところ、東方の築山から夜光を放っており、
清盛公自らが三尺ほど掘ったところで、土中から若一王子の御神体が現れ、
当地に社殿を造営し鎮守した。
平清盛公が御神体に開運出世を祈ったところ、
翌年仁安2年(1167)2月10日太政大臣に任ぜられたことから、
開運出世の神様として尊崇されている。社前の楠の御神木は、
平清盛公によって植樹されたものとされる。
例祭 11月10日 月旦祭 毎月 1日
月次祭 毎月 10日 旬祭 毎月 21日
京都市 駒札
清盛が植えたと伝える楠は長年御神木として崇められてきました。
昭和9年、西大路通りが開通したとき、
この木の祟りを恐れ切りは輪うこともなく道路を迂回させています。
この楠に祈念を込める人があります。
人目にふれないように夜中にお参りする人が今でもいるようです。
稲荷社
御祭神 「稲荷大神」 商売繁盛、生業繁栄、伏見稲荷神社より御勧請
昭和の御大典 紀念 植樹
手水舎
平家の没落と共にお宮も荒廃し、御神体も土中に埋められました。
元文5年(1740)11月10日夜、日旋老師の夢に
白い衣をつけ衣冠の人が神の由来を告げられ神社が再興されました。
それが若一神社です。
昔は勝明寺の鎮守の社といわれましたが、明治になって独立し西七条一帯の氏神とされています。
若一王子は紀州熊野権現の第一王子の名前です。
平清盛公 像
本殿 出世開運
狛犬
松尾社
御祭神 「松尾大神」 醸造満足
狛犬
銘水 若一神社神供水
平清盛公熊野詣ででの折、御神託により仁安元年(1166)11月10日、
西八条殿内に隠れたる御神体を世に出し、社殿建立し奉斎し以来、
日々、御神前にお供えせし御神水也
開運出世の水として、新生児誕生に際し、産湯としても有名也。
祇王歌碑
西八条殿は「平家物語」によると白拍子の祇王・祇女や仏御前の悲しい舞台となり、
平家の都落ちの際、自ら火を放ち焼き払われた。
弁財天社
御祭神 「市杵島姫命」 芸能、福運、正徳5年竹生島より御勧請
寿命社
御祭神 「高砂尉と姥」 良縁・夫婦円満・子孫繁栄・延命長寿
安土桃山時代に豊臣秀吉が高砂城を攻めた時、城内の社から神体が持ち出され、
若一神社にまつられた播州高砂神社より御勧請。
高砂から返却を求められたため、そっくりに模した彫刻をつくり、寿命社の神体としてまつるようになった。
祭典は高砂に返却されたといわれる日に合わせて行われた。
御神体が公開された。尉と姥共に15センチくらいの大きさです。
清盛餅
祖霊社
昭和58年9月11日建立
当神社奉仕の神職及び総代、世話方並びに特別崇敬篤き方々の御霊を奉斎し、
生前の御功労に報い奉り報恩感謝の誠を捧げると共に遺族の御守護御繁栄を祈り奉る
11月23日 画像追加 木々がこんもり茂っています
関連記事 ➡ 義経・源平史跡
佐藤の碑
この碑および佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑の4基の碑は,
いずれも佐藤政養(さとう・せいよう)という幕末から明治初期の技術官僚に関係するものです。
佐藤政養(1821~77)は出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ,地元で蘭学を学び,江戸へ出て勝海舟の門に入った。海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び,のち海軍伝習所翻訳方にとりたてられた。 以後海舟の代理者として活動した。 明治維新後は新政府に用いられ,鉄道(現東海道線)敷設の調査にあたり,以来日本の鉄道建設を技術面で支えた。 4基の碑が立つこの地には,もともと平安時代末の武士佐藤継信・忠信の墓と伝える2基の十三重石塔があった。継信・忠信兄弟は奥州藤原氏の家臣だったが,藤原秀衡の命で源義経につき従い平家と戦った。この石塔はそのひとつに永仁3年(1295)の銘があり,それからしても継信・忠信の墓とは考えられない。しかし,承応3年刊「新板平安城東西南北町并洛外之図」に「たゝのふつきのふ石たう」と記されるのをはじめとして,江戸時代の刊行京都地図にはかならず記載がある。また『都名所図会』『花洛名勝図会』には詳細な図で描かれ,洛東の名所として知られていた。しかし戦後すぐにこの地から撤去され,現在は京都国立博物館庭園に並び立っている。 佐藤政養は継信・忠信兄弟を自分の先祖としてこの地を買い取り,明治6年,十三重石塔の横に佐藤嗣信・忠を建て,さらに同9年に父文褒の功績を顕彰した佐藤文褒褒翁碑を建立した。
明治10年に政養が没したあと,翌年遺族により本碑が建てられた。さらに昭和2年に佐藤政治郎により,十三重石塔および政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚が建てられ現在に至る
継信 正六位
佐藤 之塚 政養之碑
忠信
昭和弐年参月 佐藤政治郎 建之
佐藤政養招魂之碑 (勝海舟が書いたもの)
佐藤政養(1821~1877)は、勝海舟門下の逸材として、卓抜した土木、測量の技術をもって、
近代日本の建設に大きく貢献した人物です。
文政4年(1821)出羽国(山形県飽海郡遊佐町)に生まれ、通称を与之助といい、
安政元年(1854)勝海舟に入門、翌年には勝海舟に従い長崎海軍伝習所で
操船、測量、砲術などを学びました。この間、江戸湾内の測量や開港地としての横浜の発展性を
予見、神奈川台場の築造などとともに文久元年(1861)には、地図の模範といわれる
「新刊輿地全図」を公刊し、その名を高めました。その後、政養は海舟とともに神戸海軍操練所の創設
や西宮、和田岬など摂津、兵庫の台場築造に関わります。
神戸海軍操練所では教授方を、勝海軍塾では塾頭を務め、海舟門下の
坂本龍馬、近藤昶次郎(ちょうじろう)など土佐浪士たちにとっては良き兄弟子でした。
維新後、政養は新政府に出仕、明治2年(1869)から東海道線敷設のため地理検分を命ぜられ、
新橋・横浜間の鉄道敷設に尽力しました。その後、鉄道掛京都出張所事務管理者となり、
初代鉄道助として日本の鉄道の基礎を築きました。
同時期に、測量学な土木学を教授する私塾を開き、鉄道技術者の育成に努めました。
こうした功績から政養は、「日本鉄道の父」といわれるようになりました。
明治9年(1876)、病により職を辞する直前、
自らの先祖と伝承されていた佐藤嗣信(継信)・忠信兄弟の墓と伝わる2基の十三重石塔があった
この土地を購入し、佐藤嗣信・忠信の墓碑と父文褒(与兵衛)の顕彰碑を建立しています。
その後、東京に戻った政養は、明治10年(1877)に没し、東京青山墓地に葬られますが、
妻岸子の願いにより、所縁のあるこの地に佐藤政養招魂之碑が建立されました。
篆額(てんがく)は勝海舟によるもので、招魂之碑の周囲にある玉垣は、
政養の塾で学んだ門弟たちから寄進されたものです。
ここにあった十三重石塔は、現在京都国立博物館に移設・保存されています。
平成25年7月
佐藤文褒翁碑 碑文の大意
亡父は名を文褒、字(あざな)を不及、通称を与兵衛という。出羽国飽海郡升川の生まれである。
最初の妻は池田氏で六男四女があり、継室阿部氏には三女があった。
亡父は文久二年八月二十九日に亡くなった。享年六十六。
遺言により開墾した若林の地に葬り、門人たちが墓所を作り碑を建てた。
亡父は若いころから開墾のことに専念し、土地の良否や水利を検討し、
岩をくだき草木を払い、大きな成果をあげた。
開墾をこばむ人があれば亡父はしんぼう強く説得した。
人々の利益になることを自らのモットーとし、開拓した田地は数十町にのぼった。
人々はこの恩恵を受けたのである。
子であるわたし政養は亡父を追懐し、ここにその功績を記した碑を建てる。
以後子孫の者は亡父の志を忘れず、けっして怠けることがあってはならない。
考名文褒字不及称與兵衛羽州飽海郡升川之人也元妣曰池田氏生六男四女継室阿部氏有三女孝以文」久二壬戌歳閏八月廿九日逝矣享年六十有六遺命葬於開墾地若林並門生相與戮志封土建碑焉考自壮」年致霊脳於開墾之事相地宜測水利断切嶄巌斬伐蓁莽将大有為也人或拒之考百折不撓惟以興民利自」 任遂拓田畝凡数十町民皆便焉不孝子政養聊追誌其功美以建碑于茲矣子孫咸服膺考之志勿敢或怠也」海石邨田寿書丹
明治九丙子二月 正六位鉄道助佐藤政養頓首百拝謹誌
政養 久蔵 竹野 亀野 五郎 阿芳 阿美野
政治 朋平 直治 合拝建
阿宇野 磯野 美代野
ちょうど 補修中 でした
こちらは 佐藤兄弟のお墓
ここに 建っていた 十三重の石塔2基は 京都国立博物館に移転保存されています
関連記事 ➡ 京都国立博物館 野外展示 石造物の12点 十三重石塔を追加
方広寺大仏殿跡・京都の大仏さん
天正13年(1585)、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、
東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、
六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、
高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。
ところが翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598)には秀吉もこの世を去ってしまいます。
その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、
途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、
慶長17年(1612)に大仏を事実上完成させました。
しかしその後鋳造された梵鐘の銘文 「国家安康 君臣豊楽」が徳川家を呪詛するものであるとして
徳川井家康が異議を唱えたために大阪の陣が起こり、
豊臣氏が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。
その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで、
「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
巨大な石類(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、
規模は南北約260m、東西210mと推定されます、大仏殿は回廊で囲まれ、
西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。
仁王門跡から西へのびる道が正面通りと呼ばれることも方広寺に由来しています。
なお、「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である方向会(ほごえ)にちなむといわれています。
大仏殿跡緑地
かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、
その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。
現在の緑地はその中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための
部分的な発掘調査が実施されました。
調査の結果大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m、東西約55mという、
現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことがあらためて確認されました。
発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、
小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。
秀吉は天正13年(1585)全国統一の基礎を固めると、
東大寺にならって大仏殿の建立を計画し、翌年5月この地で起工した。
「太閤記」によると東大寺は20年で造営したが、秀吉は5年で造ると豪語し、
総監督に前田玄以をあて、奈良の大仏師・宗貞・宗印を召し、
時間短縮のため、木像の廬舎那仏を造らせた。
人夫は近畿から、鉄は「刀狩」で没収した刀剣から、巨石は秀吉配下の諸侯から献上させた。
文禄4年(1595)に9年の歳月を費やして竣工した。
この時の大仏殿は南北(桁行)45間、東西(梁間)27間、棟高25間、
左右四方に廻廊をめぐらした。廬舎那仏坐像は高さ16丈であった。
9月25日、落慶法要が行われた。
1度目
慶長元年(1596)7月12日 大地震で大仏殿は倒壊。大仏は大破した。
2度目
慶長2年(1597) 信濃国善光寺の本尊阿弥陀如来像を移して代わりの本尊としたが、
残暑が厳しいというのににわか雪が降り、寒さは人の肌をさすという気候の異変を生じたので、
世人は如来の祟りだとおののいた。よって翌慶長3年(1598)信濃に返還された。それは秀吉の亡くなる前日であった。
3度目
大仏の再建は秀頼によって受継がれた。慶長7年(1602)12月4日
、誤って銅造大仏の腹中より火を発し、仏殿と共に焼亡した。
4度目
慶長15年(1610) 徳川家康の勧めもあって再び起工。慶長17年(1612)3月に竣工。
この時の大仏は高さ6丈3尺の金銅製の巨像で、仏殿の規模も以前の通りであった。
慶長19年(1614)8月3日に開眼供養の予定であったが、
銅鐘の「国家安康、君臣豊楽」の家康呪詛の事件が起こり、
その後大阪冬・夏の陣へとなり豊臣氏の滅亡につながった。
このとき、家康は照高院門主の当寺の別当職を罷免し、
代わりに妙法院門主を当ててその付属寺院とした。それより寺運は衰退した。
5度目
寛文2年(1662)の地震で大仏が破壊した。幕府は、黄金を以て像を造るのは無益だといい、
大仏を木像に改めた。旧像は溶解して寛永通宝(大仏銭)に改鋳した。
6度目
寛政10年(1798)7月 雷火によって、堂宇とともに大仏は焼失した。
7度目
天保14年(1843) 尾張国の有志が旧大仏の10分の1の木像を寄進し、
これを仮本堂に安置した。しかし、昭和48年(1973)3月28日の夜、
失火によって焼失した。その後は再興されることなく本堂跡は駐車場となっている。
地震・雷・火事・おやじ(徳川家康)のすべての災難・苦難に遭遇してきた。
往年の大仏殿の再建はかなわないのだろうか
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