新選組ゆかりの地
現在、本願寺境内の北東隅に建つ太鼓楼は、旧来より時刻を報せ、
法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築です。
太鼓は、山科本願寺において使用されていたことが知られており、
江戸時代初期には境内の南東隅に太鼓を吊るした建物があったようです。
その後、大火による焼失などを経て、現在の太鼓楼は寛政元年(1789)に建築されたものです。
建築時に新たな太鼓が備えられることになり、内部には2つの太鼓が現存しています。
なお、古い太鼓は、胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、
奈良の西大寺の遺品と伝えられています。 本願寺
新選組ゆかりの地
新選組は「池田屋騒動」(元治元年(1864))以降隊士が増え、
壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)3月10日、屯所を壬生から本願寺に移し、
境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所と太鼓楼を使用しておりました。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊王攘夷運動のなかで
幕府と対立していた長州藩士たちが、何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、
新選組は本願寺の中に本拠を移すことによって一石二鳥の効果をねらったものでした。
新選組は、境内で大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、
乱暴を繰り返したため参拝の門信徒や僧侶らを震撼させる毎日であったそうであります。
新選組の活動期間は6年ぐらいであり、大部分が暗殺されていった中、
結成時からの元隊士、島田魁(さきがけ)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、
終生お念仏を喜びながら太鼓番をしたという話が伝わっております。
明治6年(1873)、北集会所は姫路市の(亀山)本徳寺に一部移設されたため、
現在の本願寺に新選組の足跡を見るのは太鼓楼だけです。
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石碑の裏面は
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六条境内石標
本願寺は豊臣秀吉公より寺領寄進を受け天正19年(1591)1月京都六条の地に移り
翌文禄元年その堂宇を完成した。
この石標は境内の北端を示すものと考えられる。
堀川改修工事にあたり・・
昭和59年7月17日
祇園祭の日だ
従是南 六条御境内
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日蓮宗
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加藤清正公御宿院の寺
安中山 勧持院 ・・・・・
清正公
日蓮宗本圀寺派の寺。はじめ、大法寺と号した。のち勧持院と改めた。
天文の法難と天明の大火に類焼し、現在の建物は再建である。
加藤清正は熱心な日蓮宗の信者で、本圀寺参詣には、勧持院を宿舎にした。
清正の像を安置している。
庭園は清正の作と伝わる、枯山水。築山の十三重塔は僧正遍照の塔と伝わる。
紀貫之を祀った福大明神がある。
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日蓮宗
妙見大菩薩
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左女牛井跡
京の名水として平安時代より知られ源氏の邸いわゆる六條堀川館の中にとりいれられていた。
室町時代には南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したという。
江戸初期元和2年5月織田有楽斎はこれを改修した。内径2尺4寸の円井戸であった。
その後天明の大火で埋められたが、寛政2年、薮内家6世竹隂によって修補され、
その碑が7世竹猗によって建てられていたが
円井戸碑ともに第2次世界大戦最末期の民家の強制疎開とともに撤去された。
昭和44年醒泉小学校100周年記念事業の1つとしてここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。
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