石鳥居は昭和9年7月 建立 社号標は 昭和8年6月 建立


松明殿稲荷神社(たいまつでんいなりじんじゃ)
伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいう。平安時代の天暦2年(948)に創始され、
社名は、同10年(956)、勅により燎祭(りょうさい)が行われた際に
「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられる。
また、江戸時代に出された「都名所図会」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、
当神社の氏子が松明をともしてその神輿を迎えていたことから
「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、
宝永8年(1711)現在の地に移ったとされる。
大己貴命(おおなむちのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神とし、
天智天皇像(木像)及び大友皇子像(木像)を安置する。
また、境内西側には、五条坂の安祥院の僧で、日の岡峠の改修、
亀の水遺跡などで知られる
江戸時代中期の僧・木食正禅(もくじきしょうぜん)養阿の銘のある
手洗石及び井戸がある。 京都市の駒札
養阿上人は、丹波保津村の武士の家に生まれ、
24歳で仏門に入り泉涌寺で修行を積んだと言われています。
高野山で木食行を修めた後、諸国を行脚、京都に戻り七条大宮に
「梅香庵」を構え念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回りました。
同時に東海道53次の難所といわれた日の岡峠や渋谷峠(山科区)の急坂を削り、
人馬、牛車の往来を助けました。
また、渇水に備え井戸を掘るなど様々な事業を行いました。
七条大宮・平安学園北には民衆のために様々な事業に尽くした養阿上人の供養塔があります。


右から 養阿水 でしょうか


右の社号標には 朝市一同 と書かれています

こちらの 石柱には 夜店一同 と書かれています

本殿

末社 天満宮

都名所図絵に出ています
炬火殿 は七条鴨川の西にあり、祭所稲荷本社の末社にて神秘なりといふ。
又稲荷の祭禮の日、神輿臨幸の時、七条河原において松明を照らし神輿を迎ふるなり、
此社の舊例にして、故に名とす。

七条大橋 東から 眺めた図 神輿が橋を渡っている

稲荷社が描かれています

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