左 豊國神社 是より1丁
右 豊國廟参道 是より1丁
大正14年11月
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左 豊國神社 是より1丁
右 豊國廟参道 是より1丁
大正14年11月
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後白河天皇法住寺陵
陵の中央に法華堂がある。後白河天皇は久寿2年(1155)近衛天皇に次いで即位された。
在位3年で二条天皇に譲位された。
その後、5代の天皇の間院政を行い、
平安末期の激動期に顕棒術数を用いて平清盛や木曽義仲、源頼朝を翻弄され、
法皇となってからはまた盛んに造寺・造仏・社寺参詣をおこなうなど、とかく話題の多い天皇であった。
建久3年(1192)3月13日 六条西洞院殿において66歳で崩御された。
後白河天皇の皇女滋子もこの付近に埋葬されたらしいのだが、場所は特定できていない。
昭和4年11月 建立 大阪皇陵巡拝会
鍵がかかっていて これ以上 進めませんでした
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法住寺
元和7年(1621) 後白河天皇の御陵(法華堂)を守護するために妙法院によって建立された。本堂に安置する本尊不動明王は身代り不動ともいわれ、方除け、厄除けの信仰がある。
大石良雄も義挙の成就を祈ったと伝わる。これに因んで、赤穂義士47士の像を安置してある。
また、摂取堂には、親鸞上人とつたわる阿弥陀如来像と親鸞「そば」食い像が安置されている。
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三十三間堂の西側の道
通し矢
本堂の西側の縁上で矢を飛ばし、矢数で優劣を競った、的に当たるのが主眼でない。
由来については諸説あるようです。
記録の上では、慶長11年(1606)正月18日、
浅岡平兵衛が51本の通し矢をしたことが明らかになっている。
毎年 4・5月の晴れた日を選んで行われた。
昼間のみ射るのを小矢数
暮れ六つ(午後6時頃)から24時間連続で行うのを大矢数といった
大矢数は かがり火を焚き、検証の役人が並び、警護の火消役は纏を準備し厳重に実施された。
見物人は堂の西の芝生に立てられた竹矢来の外に武士、庶民が見物した。
「500本」の幟が立つごとに拍手喝さいが起こった。
最高記録は 貞享3年(1686)
紀州の家臣 和佐大八郎が総矢数13053本、通し矢 8133本 になっている。
大八郎は18、9歳。これは、1分間で9本の矢を射る計算になる。
公認記録は額にして本堂の長押の上に掲げ、破られた記録の額は撤去された。
今も、堂内西南隅の板壁には、星野・和佐両人の奉納した絵馬がある。
この通し矢は明治28年(1895)をもって以後中絶されている。
本堂 南端 建物の向こうが本堂西
廻廊
東大門
平成28年12月10日 画像追加
南東からの眺め
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幕末史蹟・土佐藩士寓居跡
当地東山には、ながく「大仏」がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したものです。
その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。
現在も同寺は存在しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院本堂)や
法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。
現在地はその南限にあたります。蓮華王院南大門(正しくは「大仏南門」)と太閤塀はその名残です。
その前(南側)の道も、一般には塩小路通とよびますが、「大仏南門通」とも別称されています。
付近にある「大仏変電所」の名もそれゆえです。
幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。
ここで龍馬は、妻楢崎龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。
たまたまその母貞と末妹君江が同所で賄いをしていたからです。
このことはお龍の晩年の回想録「反魂香(はんごんこう)」に記録されています。
すなわち「大仏南の門の今熊の(野)道」の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意味か)
の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添さつ摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、
大里長次郎(大利鼎吉ていきち)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、
平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。
が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。
これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添さつ摩の書翰でした(元治元年(1864)5月2日、母宛)。
そこに「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、
外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」とあるからです。
当地の南向かいの地名はいまも「本瓦町」で、
北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいありません。
当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、
龍馬や北添らの住居であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。
龍馬らは不在でしたが、貞や君江か連行されました(まもなく釈放)。
ちなみに北添はこの事件で戦死します。
その後の8月初旬、帰ってきた龍馬は、
お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で
内祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。
以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。
2010年5月 歴史地理史学者 中村武生
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