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90度 回してみました こんなことは パソコンは すぐできます
すると 過去の 文字が なんとなく 見えてきました
御報参上
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上京区 一條通 大宮東入 下石橋南半町(しもいしばしみなみはんちょう) フジイダイマル
上京区 一條通 裏門東入 南新在家町(みなみしんざいけちょう) 仁丹
上京区 浄福寺通 一条下ル 東西俵屋町(とうざいたわらちょう) ロータリー 新名
上京区 土屋町通 一條下ル 伊勢殿構町(いせどのかまえちょう) 仁丹
上京区 一條通 千本西入 烏丸町(からすまちょう) 仁丹
上京区 猪熊通 下長者町下ル 蛭子町(えびすちょう) フジイダイマル
上京区 猪熊通 下長者町上ル 猪熊二丁目(いのくま) フジイダイマル
上京区 一条通 猪熊西入 如水町(にょすいちょう) フジイダイマル
上京区 一條通 黒門西入 下石橋南半町(しもいしばしみなみはんちょう) 仁丹
大師堂 御影堂または祖師堂ともいう 外陣はとくに広くつくられている。寛永13年(1636)の建造
浄土真宗本願寺派の大本山。本派本願寺という。文永9年(1272)親鸞の末女覚信尼が、
亡父の遺骨を奉じて東山大谷の地に廟宇を創建し、上人の御影を安置して、
大谷御影堂と称したのが始まり。
その後、戦乱の世に各地を転々とし、天正19年(1591)現在の地に移った。
慶長年間(1596~1615)大谷派分立があったが、
幕末の動乱、明治維新の廃仏毀釈にも仏教界の指導的立場にあった。
観音堂、地蔵堂、鎮守社の建物がないのが真宗伽藍の特長。
廊下での楽しみ方 埋め木の形 いろいろ あります 探すのが 楽しくなります
クジラかな
これは ひょうたん
富士山みたい
壺
まだまだ あります・・・・
中京区 猪熊通 錦小路下る 錦猪熊町(にしきいのくまちょう) ライオンズ
中京区 猪熊通 六角通角 六角猪熊町(ろっかくいのくまちょう) ライオンズ
下京区 六角通 猪熊東入 六角猪熊町(ろっかくいのくまちょう) 仁丹
中京区 猪熊通 姉小路下ル 姉猪熊町(あねいのくまちょう) フジイダイマル
中京区 猪熊通 姉小路上る 三坊猪熊町(さんぼういのくまちょう) ライオンズ
中京区 姉小路通 猪熊東入 樽屋町(たるやちょう) ライオンズ
中京区 猪熊通 姉小路下る 姉猪熊町(あねいのくまちょう) ライオンズ
元応2年(1320)了源が山科に一宇を創建したのが起こりといわれ、
のち東山渋谷に移って仏光寺と改めた。後醍醐天皇より仏光寺の寺号を賜る。
文明年間(1469~1487)、14世経豪は本願寺の蓮如上人に帰依し同志を率いて仏光寺を脱し、
山科の旧地に一宇を建立し、旧名によって興正寺と称した。
それより、山科本願寺と行を共にし、大阪天満に移り、
次いで天正19年(1591)現在の地に移った。
承応年間(1652~1655)、本願寺と論争が生じたことから不和となり、
明治9年(1876)分離独立した。
今の堂宇は明治35年(1902)の出火後の再建で、大師堂・阿弥陀堂以下多くの建物がある。
御影堂 明治45年(1912)建立 親鸞聖人の御真影を安置
阿弥陀堂 大正4年(1915)再建
中央に阿弥陀如来像、左右に 七高僧、聖徳太子の御影を安置
鐘楼 安永3年(1774) 桃園天皇の忌にあたり、皇太后恭礼門院から梵鐘とともに寄進された
経蔵 嘉永元年(1848)建立
興正文庫
北隣にある 西本願寺の飛雲閣 が見えます
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下京区 下松屋通花屋町上ル 突抜一丁目(つきぬけ) 無銘
下京区 猪熊通五条上る 柿本町(かきもとちょう) ライオンズ
下京区 猪熊通 仏光寺下ル 槌屋町(つちやちょう) フジイダイマル
下京区 佛光寺通 猪熊西入 西田町(にしだちょう) 三和塗装看板 私製かな
下京区 猪熊通綾小路下ル 瀬戸屋町(せとやちょう) フジイダイマル
中京区 猪熊通 四条上る 錦猪熊町(にしきいのくまちょう) ライオンズ