アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

圓光寺  臨済宗南禅寺派

2015年12月04日 19時12分19秒 | 寺院

 

 

圓光寺

瑞厳山と号する臨済宗南禅寺派の寺で、徳川家康が関ヶ原の戦役後の慶長6年(1601)、伏見城に近い指月の地に学問所をひらき、元佶三要和尚を招いて校主としたのが当寺の起こりである。元佶和尚は下野国(栃木県)足利学校の僧で、徳川氏創業のはじめより家康の知遇をうけ、畿内社寺の訴訟を公聴し、また学問をすすめた。この縁により、家康は朝鮮文書200部・日韓の書籍ならびに木製活字10万の管理にあたらせ、世に円光寺版または伏見版とよばれる多くの書籍を刊行した。この木活字は朝鮮役に際して輸入されたものである。慶長11年(1606)家康の駿府隠居によって当寺も駿府に移ったが、寺籍は相国寺内に移された。しかし、元和6年(1620)相国寺の大火によって円光寺も類焼し、寛文7年(1667)現在の地に移るに至った。当寺はわが国印刷文化史上、特筆されるべき寺である。境内には、千手観音坐像を本尊とする本堂や家康を祀った東照宮等があるがも以前はもっぱら尼僧の修行道場だった。

 

洛北の眺めがよい

 

圓光寺伝来の木活字(約400年前)

近世初期には活字版印刷が盛行し、印刷された書籍は古活字版と称されており、わが国の出版文化史上名高い。その1つである伏見版は徳川家康が足利学校校長であった閑室元佶に京都伏見の円光寺において漢籍印刷を行わせたもので、それに用いた多量の各種活字は我が国の印刷技術を跡づける上で貴重である。52320個

 

 

 

 

大勢の人でした

現代の作家による 屏風

 

富岡 鉄斎 の作品

 

 

墓地

 

オマールの墓   戦争時の留学生 広島の原爆で被爆・被曝した

 

村山たか女 の墓

 

寺からの眺め  遠くに見えるのは 愛宕山

 

愛宕山は 右の方   正面の山は 船岡山

 

池に写る景色  

 

 

 

こちらは  見上げた 紅葉

 関連記事 ➡  関連0014  富岡鉄斎


道標  金福寺へ 

2015年12月04日 11時33分28秒 | 道標

右   蕪村翁再興                     金福寺

      芭蕉庵

夜半亭   蕪村翁之墓

 呉春   景文之墓

                       蕪村

 耳目肺腸こゝに玉巻はせを庵

 大正拾四年春   三宅安兵衛建之

 関連記事 ➡   三宅安兵衛の道標


詩仙堂  石川丈山の隠棲地

2015年12月04日 11時08分39秒 | 史跡・旧跡

詩仙堂 入り口 付近

 

すごい 人出でした  11月28日

詩仙堂は江戸時代の儒者石川丈山が晩年を過ごした山荘である。曹洞宗の寺。建物は多少改造されているが、今なお往時の面影をとどめ、儒者の家らしい風格を備えている。建物は仏間と居間(詩仙堂)と屋上の嘯月楼からなり、居間には四方の長押上に丈山が題賛し、狩野探幽・尚信が描いた中国の詩人36人の詩仙の額を掲げている。

庭園は建物の南にあって、東に滝をつくり、前庭につつじの刈り込みを設け、一面に白砂を敷いて枯山水とし、青山と海洋の景趣をあらわしている。丈山は三河国(愛知県)の人。徳川家譜代の家臣であったが、大阪夏の陣に先陣の功を争って家康の怒りをうけた。このため禄を辞して京都に来往し、この地に隠棲すること30余年、寛文12年(1672)5月23日、90歳の高齢で亡くなった。丈山遺愛の品を多数有し、毎年5月23日には丈山忌がいとなまれる。

添水は丈山の考案といわれる。獅子脅しである。

丈山の没後、荒廃した時期もあったが、最近では昭和42年(1967)に至って現在の如く改修された。ダイアナ妃も訪れています。

 

今年の紅葉は あまり よくない

 

嘯月楼

 

 

 

 

 

 

洛北の眺望


一乗寺下り松  宮本武蔵・吉岡一門の決闘の地といわれていますが・・・

2015年12月04日 10時31分28秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

左 宮本  吉岡  決闘之地  

右 大楠公戦陣蹟

一乗寺下り松

ここは、近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で、ここの松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の松は4代目に当たる。江戸時代のはじめ、この地で、剣客・宮本武蔵吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で、ここから東に約300mの所にある八大神社の境内に、決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き寸前でやめたという話もある。平安中期から中世にかけ、この辺りにあった一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となった。南北朝の動乱以後に衰えて廃絶した。傍らの記念碑は大正10年(1921)に広島県呉の剣士・堀正平氏により建立されたものである。京都市

慶長9(1604)年,剣客宮本武蔵(1584~1645)が,吉岡又七郎およびその門弟とこの地一乗寺下り松で決闘したと伝える。この石標はその跡地を示すものである。ただし,江戸時代の地誌類にはこの逸話を記すものはなく,竹村俊則「宮本武蔵決闘地 一乗寺下り松について」(『土車』24号)は江戸時代の随筆「古老茶話」に依り北野一条下り松を推し,これが一乗寺下り松と誤って伝えられたとする。  表面に名を記す堀正平(1888~1963)は,大日本武徳会武術教員養成所を出て,各地で剣道教師を勤めた武道家。建碑者堀翁は妻佐々木氏翁  この伝説は作家吉川英治の小説「宮本武蔵」でにとりあげられ、ますます有名になり、今ではあたかも定説のようになっているが、真偽は保証できない

碑文

慶長九年宮本武蔵吉岡清十郎ト蓮台野ニ於テ剣術ヲ試ミテ之ニ勝チ又其弟伝七郎ト洛外ニ出テ雌雄ヲ争ヒ一撃ニシテ之ヲ斃ス是ニ於テ吉岡ノ門人恨ヲ含ミ清十郎ノ子又七郎ト謀リ試合ニ名ヲ仮リ数十人兵仗弓箭ヲ携ヘテ此所ニ会ス武蔵又七郎ヲ斬リ其徒党ノ者ヲ追退ケ悠然トシテ洛陽ニ帰ルト云

    大正十辛酉年                  堀      翁女建之

大楠公戦陣蹟

 『太平記』によると,建武3(1336)年正月楠木正成(?~1336)勢と足利尊氏(1305~58)勢がこの地で対陣し,正成が足利軍勢を追撃したとされる。

碑文

建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす乃ち前宵楠木 結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に 陣し明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬこれ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せりしかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせすしかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在りかゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし即ち斯に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり

昭和二十年五月二十五日建之

昭和廿年十一月建之        大楠公下松戦蹟顕揚会     撰并書     文学博士   吉沢義則

関連記事 ➡  北野一条下り松

 


石鳥居  護法堂瓣才天   221基

2015年12月04日 09時48分47秒 | 石鳥居

池に浮かぶ 祠 鳥居の柱は 八角形です

明治35年2月27日 建立

元の記事 ➡  護法堂瓣才天  今季一番の感動もの紅葉 でした

前回の石鳥居記事  ➡  石鳥居  護法堂瓣才天  220基   


光福寺  干菜寺系・六斎念佛  秀吉から「ほしな寺」と称された

2015年12月04日 07時14分01秒 | 寺院

右へ進みます

光福寺

正式には、干菜山斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗の寺院であり、山号をとって「ほしな寺」とも呼ばれている。寺伝によれば、寛元年間(1243~1247)に道空上人が西山安養谷(長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が当寺の起こりで、天正10年(1582)に月空宗心によって現在の地に移されたと伝わる。道空は「六斎念仏」を世に広めたことで知られ、当寺に伝わる「六斎念仏興起書」によると後柏原天皇から「六斎念仏総本山」の勅号を賜ったという。秀吉からもその特権を認められたという。六斎念仏とは、毎月の六斎日(8日、14日、15日、23日、29日、30日)に精進潔斎(身を清めること)して念仏を唱えることか起源であったが民衆の間に広まるにつれ、鉦や太鼓を打ち鳴らす念仏となった。大きく分けて空也堂系と干菜寺系があり、空也堂系は踊念仏で芸能的色彩を帯びていったのに対し、干菜寺系は原型を留めた六斎念仏といえる。双璧である。

また、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が聚楽第在住の頃鷹狩の途次立ち寄った際、空心上人は貧しい寺のこととて何のもてなしもすることができないので、乾菜(ほしな)一把を献じたところ、秀吉はその質素さに感服し、「干菜山光福寺」の称号を与えたといわれている。本堂には、正和2年(1313)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫では、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓や秀吉の画像等を所蔵している。書院庭園には、聚楽第より移したという庭石(臥牛石、片山石、諸眉石)がある。京都市等

 

関連記事  ➡ 空也堂

              有名人ゆかりの地

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