アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

名水を訪ねて  京都の地下には大きな貯水層がある 

2015年12月12日 23時24分19秒 | 名水を訪ねて

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現役の名水

1  銅駝会館

2  下御霊神社

3  染井 (梨木神社)    12月7日

4  右書き看板43  六源勢伊  やなばちた  創業 宝永5年  創業以来 307年 

煮沸してから使ってください

1    新滋野井

2  若一神社

 

名水 水は出ています

1  柳の水

2  染殿井 雨宝院 (西陣五水)

3   手洗井         12月12日

 

昔の名水 井戸はあるが使っていない

1  いさら井

2  梅雨の井

3   千代野井  西陣五水の1つ

4  銀水

史蹟としての名水

1   化粧水(けしょうのみず)

2  牛若丸 首途の水

3    石碑 左女牛井・さめがい   

4  菊水の井                            

5    水薬師寺  平清盛ゆかりの寺・名水「岩井」      

6    名水・芹根水 と 書家 烏石葛辰 

7  親鸞聖人 御聖水  湧出しています         

 

 

誇りの銘水 

1  石野味噌の「石井筒」

 

パワースポットとして

1  晴明の井

 

信仰の水

1  解穢れの水  月読神社

 

未分類

 

2  桜井  ・西陣五水

3  安居井・西陣五水・個人宅

4  鹿子井・西陣五水・個人宅 

5  染殿井・京都御所・清和天皇の母の住居内にあった

 


御手洗井

2015年12月12日 17時27分26秒 | まち歩き

 

 

 

御手洗井

例年祇園会中(7月15日~24日)ここの井を開く

此の地は往古祇園社御旅所 社務藤井助正の屋敷地で庭前に牛頭天王社を建て毎朝この霊水を奉供した。永禄11年織田信長上洛して御旅所を移転の後もこの井水の格別なるを聞き井戸に施錠し鍵は町分に渡し置き毎年祇園会のときのみ之を開いて諸人へ神水を施行せしめたと云う。然して東裏竹藪より竹2本を伐り取り山科より丈八松2本を持参して井前の鳥居に結びつけて七五三縄を張るを例とした。以降連綿現在に及ぶ。明治45年3月烏丸通拡張の為旧地より原形のまま其の東方現地に移す深さ7尋半水質清冷にして都下の名水として著名である。毎年7月14日井戸換え24日間閉じる。

 

 

関連記事 ➡ 名水を訪ねて


葉山馬頭観世音 一燈寺 境内は崩壊していました ここに西郷隆盛が梅田雲浜に遇いに来た

2015年12月12日 10時41分13秒 | 寺院

 

毎月17、18日にはご開帳されるので参詣客でにぎわいます。

ご本尊は40センチほどの仏像。いかめしい顔です。この辺りは農村で、農耕に牛や馬が使われていました。牛や馬がけがをしたり、病気になった時牛馬を連れてきてお参りに来ました。今は、家庭の不和、移転する方角、子授け、縁談などにわたっています。寺伝によると馬頭観音は聖徳太子の作ということです。

当寺は林丘寺の開山・普明院宮元瑤禅尼(後水尾帝皇女)の帰依により、堂宇を改築し、三面馬頭観世音坐像(室町)を祀った臨済宗林丘寺派の寺で、「葉山の観音さん」として近郷の人々から崇敬されてきた。境内にはもと茶室一灯庵があったが、明治年間に荒廃し、今は本堂と大正の御大典の折に賜った用材で建てられた書院等がある。三条実満公の書「寿如濤」の額があります。勤王の志士梅田雲浜は、嘉永5年(1852)8月1日、高雄から移住し当寺にしばらく隠れ住んでいた。西郷隆盛が尋ねてきたときには着ている着物を質に入れて酒を買いもてなしたといいます。生活はたいへん苦しかったようです。妻信子は雲浜の獄死に先立つ安政2年(1855)、29歳で亡くなった。墓は東山区五条坂・安祥院にあり、雲浜の遺髪と合葬されている。

雲浜・信子の子孫は今もご存命らしい。

 

 

 

 

 


六角堂の鐘楼 

2015年12月12日 06時30分14秒 | 寺院

 

 

 

 

六角堂

鐘楼 六角通りを隔て 飛地境内にあり 慶長10年(1605)豊太閤の臣 堀尾吉晴の嫡男 忠氏が寄進 当時派は一向宗による一向一揆、加茂川洪水や大火の際にこの鐘をついて 急を市民に知らせたという。この鐘は 天明の大火(1788)で焼失、天保11年(1840)再鋳するも、第2次世界大戦に献納された。現存のものは昭和29年に再鋳復元 銘文は 天保年間のものによる

古銘に曰く 

花外 蒲牢の響き 長安 半夜の天 撃つ人は成徳を輝かし

聞く者は名纏を解く 朝に遠山の碧を渉り 暮に街市の烟にむせぶ

観音妙智力  寿 幾千年か算えん

 

慶長拾年  春季 如意珠の日

 

関連記事 ➡ 六角堂 頂法寺


六角堂 頂法寺    

2015年12月12日 00時06分32秒 | 寺院

 

 

 

昭和40年7月 建立

紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めてこの地を訪れた時,霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国三十三所観音霊場(現十八番の札所)となったと伝えられる。建仁元年(1201)、親鸞聖人が当寺に比叡山より100箇日間ここに参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。創建以来しばしば火災にかかった。現在の本堂は、元治元年(1864)の兵火に類焼後、明治8年(1875)の再建で、

聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像は一寸八分(約5センチ)の小さな秘仏で公開されていませんが本尊をそのまま模してつくられた御前立によっておがめます。親鸞上人夢想の像、平安期の作の毘沙門天立像(重文)、聖徳太子2歳像、などを安置する。

へそ石餅

へそ石

本堂前の六角形の直径45センチ、伽藍の礎石か灯篭の台石かよくわからないが臍石といい、もと門前の六角通の中央にあったが、江戸時代の名所図会にも道の真ん中にへそ石が描かれています。交通の妨害になるというので、東門を入った境内の敷石参道の中央に埋め込まれ、近年さらに今のところに移した。当寺が創建以来、寺地を変えることなく、また昔は京都の中心にあたるとされてきた。「要石」ともいう。

 

 

 

扁額

大提灯

香炉  煙が絶えない

大燈籠

札がいっぱい 貼られています

本堂の背面

 

手水舎

十六羅漢

 

親鸞堂

親鸞上人

日彰稲荷

 

右から 祇園社、唐嵜社、天満社

本堂 東から見ています

本堂  瓦には「六角堂」と刻まれています

 

石不動

不動明王

 

六角形が使われています

ここも 六角形が使われています

また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、足利義政より華道家元の号を賜った。華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。 京都市

 

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